15.鎖
 長期遠征の話が来たのは、先週のことだった。最低でも一月はかかると聞いて、反対されるかなぁと危惧しながらシオンに告げれば、にべもなく「駄目だ」と言い切られた。理由を訊いても、「あの地域は危ない」だの、「お前がどうしても行かなきゃならない理由はないだろう」だの、挙句の果てには「俺を冬の間ずっと一人にする気か」と理由にもならない言葉が返る始末。
 行かないですむ筈もないのに。
 こんな子供みたいなところのあるひとだったのかなぁ、とシルフィスは苦笑しながらも、少し嬉しく思ってもいた。
 あの頃は、もっとずっと大人に見えたのだ。どんなに追いかけても届かない、同じものを見つめていても、一人もっと違う何かを見ているひとなのだと、思っていた。圧倒的な力を持ち、いつだってどこか余裕を残して、笑っていたひと。自分のことだけで精一杯だったあの頃は、本当に遠く見えた。いつの間にか惹かれていた気持ちさえも、自身ではなかなかはっきりわからなかった。それでもシオンは気長に分化を待ってくれた。いつだってからかったり、どこまで本気なのかわからない冗談みたいな態度でいたけれど、なんだかんだで励まされていたような気がする。シオンなりの愛情だったのだろうと今は思う。
 あれから――シルフィスがクラインの女騎士となってから――、三年の月日が流れていた。シルフィスは、騎士団内の小隊を任されるほどに成長していた。




 結局その後ゆっくりシオンと話す時間はとれず、とうとう遠征に出かける日を迎えてしまっていた。発つ前にどうしても挨拶だけはしておきたくて、王宮内を探したもののシオンは見つからない。アイシュにも何もいわず、今日は朝から姿を見せていないらしい。
 会ってもまた反対されるんだろうなぁと思いながら、シルフィスはシオンの庭園を覗いた。小降りの雪がちらつく中、シオンは花のないアーチに凭れてぼんやりと立っていた。
「シオンさま」
 シルフィスの騎士服に目をやるなり、シオンはあからさまに眉を顰めた。
「やめとけ」
「……無茶なこと云わないで下さい」
「どっちが無茶だ。あの区域はほんとに危ないんだぞ」
 そっぽを向いたままだったが、シオンの声は、珍しく真摯に響いた。心配してくれているのは、わかる。わかっている。
「……ですが、仲間を見殺しにはできません」
 それでも、これがシルフィスの選んだ道だ。騎士として、王家に仕えることを選んだあの日から、シルフィスはまっすぐに歩いてきた。助けを求めて仲間が呼ぶのなら、応えないわけにはいかない。それが、いかなる危険を伴うものであったとしても、可能性を最初から否定したくはない。
 ゆっくりとシオンが振り返る。今日初めてみる琥珀の瞳が、辛そうな光を隠すように伏せられる。
「……だから、騎士になんぞなるなって云ったんだ」
「な、今更何を云うんですか」
「やめちまえ」
「……子供みたいなこと云わないで下さい」
「ここにいろよ」
 シオンの手が、シルフィスの手を掴む。いつからそこに立ち尽くしていたのか、酷く冷たい掌。それに、どきりとした。放さないと云わんばかりに、睨むような視線。
「これからもっと寒くなります。風邪を引かないで下さいね。……そろそろ時間なので行きます。一言、ご挨拶だけしておきたかったので」
 どうしようもなく胸が痛んだが、視線から逃れるように小さく首を振って、シルフィスはそっと腕の自由を取り戻した。
 一礼をして、ゆっくりと踵を返す。何も、永遠の別れなわけではない。一月ほど留守にするだけだ。きっと、シルフィスは戻ってくる。足を踏み出しかけた時。

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「行くなっ!」
 非常に珍しく、シオンが叫んだ。声を荒げることさえあまりないひとの、心の叫びのようで、足が止まってしまう。もう、行かなくてはならないのに。
 何を大げさな、と笑おうとして、真剣な眼差しに射抜かれた。魅縛されたように、視線が逸らせない。
「……シオンさま」
 まるで世界のすべてから攫われるように、つよく擁かれた。
 とても、とても逆らえない。
「行くな、シルフィス」
 耳元で繰り返される言葉。低く、切ない声で、そんなふうに名を呼ばないでほしい。決意が、鈍ってしまう。両の腕でしっかりと抱きしめられ、シオンのぬくもりがじんわりと伝わってくる。
 ずるい。いつだって、どこか余裕を残しているシオンが、なぜそんな顔をするのだ。なぜ、こんなときばかり、余裕のない真摯な表情を向けてくるのだろう。
 そうしてこのぬくもりを、どうしてシルフィスに離させるのだ。そんな、辛いことばかりをなぜ強いる。
「……いつもみたいに、笑って見送ってください」
「できない」
「……心が、残ってしまう」
 シオンの元から離れたくない気持ちを、封印している気持ちを、思い出させてほしくはなかったのに。出発間際に、なんて酷いひとなんだろう。
「残せよ、心ぐらい残していけ、俺に」
 心臓の奥まで届くような声で、囁かれる。ぐらぐらと想いに揺れる心のように、全身が震える。
「……困ります」
 シオンを切り離して、生きていけるのか、揺さぶりかけられているみたいだ。何を今更、試すというのだろう。こんなにも、この心は囚われてしまっているというのに。
「俺の想いで、お前を繋ぎとめられるなら、いくらだって祈る。――いいか、戦場で生きるか死ぬかの瀬戸際にたったときには、強い思いを抱えてる奴が残る。絶対に帰りたい、絶対にもう一度会いたい、何が何でも生きてやる、そういう強い気持ちを持ってる奴がしぶといんだ。
 お前は、潔い。若さゆえ、のものだけじゃなく、まっすぐに潔いのは、お前の美点だけれど、見てるとたまに怖くなるよ。その潔さゆえに、何かのときには、そのまま簡単に未練を残さずいっちまいそうで。だから、俺なんかがお前の命の鎖になれるのなら、いくらだって、ここで駄々を捏ねてやる」
 やっと、シオンが小さく笑った。
「……威張らないでください。そんなことで」
 照れくさくて、シオンの髪に顔を伏せるようにして視線から逃れた。
「だから、生きて帰ってこい」
 まっすぐな声。いつもみたいなふざけた雰囲気は、欠片も滲んでいない。
 滅多にみせないシオンの本気。それに、雷で撃たれたような衝撃が、全身を包み込んでいる。シオンの想いに縛られるのなら、本望だ。
「……帰ってきますから」
「必ず」
「はい、必ず」
 まるで小さい子供に言い聞かすような、約束。
 でも、帰ってこよう。このひとの元へ。
 何があっても。たとえ何かを犠牲にしても。
「……やっぱり、俺もついていこうかなぁ」
 本気とも冗談ともとれないようなぼやき。
「やめて下さい。クラインはそんなに暇じゃないでしょう。殿下に私まで怒られます」
「俺は、暇だ」
「また、そんなことばかり。あなたからもらったペンダントは持っていきますから!」
 なかなか解放してもらえそうにもない雰囲気に、シルフィスは苦し紛れにかつてシオンにもらったペンダントを見せた。
「わーかったよ。ちょっと貸しな、力を入れておく」
 苦々しい表情でシオンは、何やら呪文を唱えてペンダントに力を封じ込めるように両手で包み込んだ。ペンダントの翡翠の輝きが増して、雪空の下でもきらきらと光っている。
「ありがとうございます。では時間がもうないので」
「帰ってこなかったら、追っかけていくからな」
 そわそわと身じろぎしたシルフィスに、シオンが脅すような一言。
「冗談でもやめて下さい」
「いんや、本気」
 軽い口調、それなのにその瞳の奥には、深い昏冥が見えたような気がした。吸い込まれてしまいそうな深淵の闇を、このひとは常にどこかに抱えている。
「肝に銘じておきます」
 その瞳にあわせて答えた。まだ迫力負けするけれど、精一杯真剣にシオンを見返して。
「じゃ、気をつけてな」
 ようやく納得したように、シオンの腕の檻から解放される。にっと笑ってシオンは、小さくひらひらときれいな手を振った。
「はい。行って参ります」


 五分遅れで集合場所に辿り着いたシルフィスに、レオニスは見通したように「シオン殿か」と小さく呟いたのだった。  


End.


2004.11.20  天羽りんと

颯城さんのイラストから受けたイメージから書いてみましたが、久しぶりなだけにどうも文章がまだしっくりきませんねぇ(^^;)。駄々捏ねシオン話でした(笑)