8.翼

どれくらい近づいたら飛び立ってしまうのだろうか。
受容距離を測りかね、けれど確かめる勇気はどこか重ねた年齢の狭間に置いてきてしまった。
言葉も感情もそっけなく上滑りすると思ったら、俺でも臆病になる。
そういう痛みを適当に見て見ない振りをして、灼けるような甘さだけを求めている。


「……ッ」
飲み込んだ吐息が熱く、尖ったように喉の奥に突き刺ささった。
シーツに埋もれる頭も触れられる部分も何処までが自分で何処からがそうではないのかが分からなくなっていく。少しずつ、自分が削り取られていく。
不謹慎さを責め立てる理性は悲鳴を上げて、狙ったように囁かれる名前に存在すら危うくされる。
普段現れにくい感情が剥き出しになってレオニスを揺さぶるのを彼は知っているのだろうか。
いつもはよほど――よほど自分などより自らを露出させない。巧妙に。
まるで嵐に荒れた波に攫われるようだ。
口を塞いでも剥がされて、手首に重みがかかる。体重を受け止めて軋む音が聞こえるようだった。それなのに、それを振りほどく事すら、思考ごと乖離していく。
「痛、……シオン、殿……っ」
「……それさ、公私混同って、言わね?」
「何、が」
自分でも気付かぬ内にきつく閉ざしていた瞼を開けば、少し思案するように細めた琥珀の瞳が自分を見下ろしている。瞳の奥を、覗き込んでくる。
確実に、感覚のどこかが痺れを増した。自らの声は堪えるように掠れていて、それ以上に耳を塞ぎたくなるのは意味を拾い上げる事も出来なくなっていくのに、浸透していく深い声だ。
「…っ、あ、」
「ま、良いけどさ」
開いた口が言葉を成す前に、押し上げられた膝裏ごと用意した言葉は弾けて霧散する。
意図的に。それが意図的であることは確実なのに、シオンは話すのを止めようとはしない。
「……明日からしばらく留守にする」
「任務、です、か」
かろうじて返した言葉は反射的で、普段なら問う筈も無い事。
王宮の筆頭魔導士が外交でもない任務で王都を留守にすることなど表向きはありえない。
つまりそれは、正式な仕事ではないということで。
受けて喉奥で笑うシオンの声もまた、飽和していく。少し、不安定さを帯びて。
「答えんよ」
「……聞きません」
「だったら、」
「ッ、お互い様、でしょう……」
シオンは予定を口にすることなどない。
レオニスは空白を埋めようとはしない。
「そう、だな」
輪郭を失っていく視界で咎めるように睨み付けると、近づいた貌が苦笑を刻んだ。


「どうかなさいましたか」
報告を読み上げる静かな低い声を途切れさせ、レオニスはふと逸らされた菫色の瞳の先を追った。
「ああ、いや……すまないね」
続けて、とそれは一瞬で、しかし中断を詫びるようにセイリオスは笑む。レオニスは心得たように再び報告書へと視線を落とした。
どうりで冷え込むわけだ。
頭の片隅に残った思いは双方同じで、それを会話に出さない理由だけが違っていた。
何事も無かったように淡々と過ぎていく報告を聞きながら、セイリオスは相手には悟らせないぎりぎりの部分で苦笑を含ませる。
別にはしゃいで見せろという訳でもないが、それを理由に仕事の中断を計る男よりはマシだろうか。
発った日にはまだ冬の気配は遠かったから、これでは帰りが難儀するかもしれない、と報告の終わりとともに、ひっそりと溜息を落とす。
そんなセイリオスを映す、一礼間際の群青の瞳が僅かに細められた。
「……夕方には、郊外は積もるでしょうね」
思考の先を読むように掛けられた声に、セイリオスは落としていた視線を上げた。内心の動揺をあからさまに示すその一瞬に自嘲を込めて眉根を寄せたが、そんなセイリオスを知ってか知らずか、レオニスの瞳は窓の外に向けられている。
自分へと当てられた視線を敏く察知して、レオニスはセイリオスへと再び腰を折った。
「警備を強化するよう伝えましょう」
続けられた言葉はもう、核心からは程遠く。
結局のところ、型通りの発言以外無駄の無いレオニスにおいては余分とも言える言葉の真意を、セイリオスが推測することは出来ない。

窓の外では雪がちらつき始めていた。
レオニスが言葉を切った一度以外も、幾度となく窓へ視線が投げられていたことは、セイリオス自身無意識の内で気付いていない。


触れた場所から血液が送り出されるような熱が生まれる。
縫い付けられ、握り締めた指先は白く震えていた。
零れる吐息が重なった肌を濡らしていく。
「シオン、殿、……手を、」
「駄目。声が聞きたい」
「……っは、もう」
「…逃げるなよ」
「シオン殿っ……」
悪い、とシオンは囁いた。
何に対する謝罪なのか、問い返す余裕は周到に奪っている。
もう目を開けてはいられなかった。琥珀の瞳が浮かべる先の色を見届けることも。
ただ爛れるように境界線は曖昧に溶け込んでいった。

目を覚ますと傍若無人の限りを尽くした男はどうやら既に発った後で、ただ気怠さだけが残っている。
陽はもう大分あがっていて、正確に朝を告げる体内時計もこのときばかりは役に立たないようだった。休暇で良かったと思う。それすらも、計算の上だろうか。
疑問系を取っていても半ば確信的に考えて、起き上がるのも億劫に、見慣れた石の天井を見上げる。
以前からちらついていた不安定さはその質量を増しているように、レオニスには思えた。
故意に、見送ることをさせないような匙加減だとか、
「……公私混同」
断片的な記憶を口に乗せて、柳眉を顰める。
言葉の意図にか、思いのほか掠れていた声にか、自分でも判断はつけにくい。
それでも考えなければならないだろう。
シオンの言葉は半分以上が冗談でできている。
レオニスに逃げる余地を寄越している。
分かり難いだとか、必要ないだとか、今そういうことを考えるのは狡い気がした。
残された余地に逃げ込むことは、それ以上に。

―――

鳥には「飛び立ち距離」というものがある。
人が近づいたときに飛び立つ一定の距離を指し、種によってその距離は様々だ。
それは、鳥の人に対する近さを示すという。

私の翼はもう折れているから、とか言うのもいかにもありえそうなことだ。
レオニスの人格は諦観で成り立っている。
自分との事もその一環ではないか、とシオンは時折自虐的に考える。
だとすれば、どれだけ近づいてもあるいは其処に在るかもしれず、けれどそれは酷く一方的なものでしかない。
飛び立てば戻ってこない。そんな根拠の無い予感がある。人はそれを不安と呼ぶのだろうか。
しかし、近づいて飛び立たれるのも、平然とされているのも釈然としないものが胸に重く残り、シオンの想いは八方塞がりだ。
「ちくしょ…」
小さな呟きは、白い息と共に昼前から降り始めた雪に吸い込まれるように消えていく。
足元は既に白く厚い絨毯が出来始めている。思ったより早く雪の季節が来たため、装備を準備してこなかった。足先は濡れて凍えている。
重く垂れ込める灰色の空が、尚更陰鬱とした気持ちを後押ししていた。
視界の端で、雪の中飛び立っていく鳥がある。
むしゃくしゃとした気持ちのまま雪を蹴り上げると、白い飛沫が散る。その行方を追うように顔を上げて、シオンは大きく目を見開いた。
冬を迎えて氷に閉ざされかけた湖の畔、新緑を茂らせる春を待つ木の根元に置かれたベンチに、美しく背筋を伸ばした黒い姿が在る。
傾きかけた陽光を受けとめ、眠ったように瞳を閉じていた横顔がゆっくりとこちらへと向けられ、そうしてちらりと笑ったような気がした。
呆気に取られた短い時間が過ぎると、誤魔化しを含んで大雑把な足取りで近づく。
「……っ何してるんだよ、あんたは」
乱れた吐息が白く空気に溶け込んでいく。
時折払っただろう肩や髪には、それでも幾らか雪が積もっている。
レオニスは腕で庇うように覆っていた膝の上の本を持ち上げて示してみせた。開いてもいない。
「本を読みに」
「こんなところでか」
「不可能な様子でしたので、雪の降る音を聞いていました」
当たり前だ。再び膝へと下ろされる本を見下ろして心の中で口実の意味を量る。
「雪に音があるか」
「そうでしょうか」
瞳を細めて視線を流すので、シオンは本当に音が聞こえるのだろうかと一瞬錯覚を起こしそうになる。
「……こんなところで待たなくてもいいだろうが」
「本を読みに来たんです」
「俺が今日、ここを通って帰らなかったらどうすんだよ」
全く会話が噛み合っていない。
平常自分よりも上にある目線が、珍しくもほんの少し楽しそうに見える。そうして、シオンを見上げている。それだけで、心拍が落ち着きをなくす。情けなくも。
「迎えて欲しいのかと思いましたが」
読み違えましたか。
「何言って……」
寒さの所為には出来ぬほど、頬に朱が上るのが分かった。「本当は見送って欲しかった、でしょうが」そう付け足しがある。
口端が笑みを模っていた。何てことだ。
不覚さに舌打ちしたいというのに、笑い出したくもあった。
二の句を告げないシオンをどう思ったか、レオニスは漸く立ち上がる。ぱらぱらと白い雪が零れ落ちて、夕陽を弾いて散っていく。
少し、迷うような間があった。言葉を探しているような。
「私は、器用ではありませんから」
そう前置いた顔にもう笑みは無い。
「公私混同いたします」
「レオニス」
「……そうやって呼んで、咄嗟に使い分ける自信がありません。ですから、」
「レオニス。もう、いい」
そういうことを言わせたかったわけではない。
でもだったら、どんな言葉を貰えば満足だったのだろうか。
過去と同じ轍を踏みたくないという、レオニスには強い戒めがある。
分かりやすく、シオンに甘えていると……甘えさせろと、そう言っている。それが分かったから、もうそれで十分だ。
言葉を遮るように首を振ると、結った長い髪から雪が振り落とされる。それに気付いたように、レオニスの指が伸ばされた。
その手首を捉えても、逃げることはなく、小さく笑う。
「貴方も思ったより不器用だ」
「らしくなくて悪かったな」
拗ねてみせれば更に深い笑みが返ってくるからどうしようもない。
「シオン殿はシオン殿でしょう」
何の気負いも含みもなかった。
泣きそうな気持ちでシオンは笑みを浮かべる。
頬を撫でて風が吹き抜けると、たなびく黒のコートの裾に白が舞って、そして散っていく。
なあ、と腕を捕らえたまま、一歩距離を詰めた。

「あんたは、どれだけ近づいたら飛んで逃げる?」
「どれだけでも。いままでも、」
雪にも吸い込まれることのない、静かに通る声を耳に、肩口へと額を預ける。
瞳を閉じれば、目蓋の奥に焼きつく白と、雪の降る音。祈りに似て。
「私の翼はもう、折れていますが……逃げたいのなら、走って逃げる足があるんです」


初雪は柔らかにその心へと降り積もっていく。痛みを覆い、雪解けと共に押し流していく。
長い冬はまだ始まったばかり。
それでもやがて、季節は春へと滑り出すのだ。



End.



2005.01.05 颯城零

あああ何やってるんだか
開き直ってどうする