16.眠り姫 ◆戻
喧嘩をした。というより、シオンが一方的に機嫌が悪くなって、強い感情を覗かせる瞳はしかしそれが何色であるかシルフィスには判断がつかず、それがまたお互いにイライラを増幅させて。 ……そんな感じだったと思う。 キスをするのにどちらから、とか、そんなのはどうでも良いことだし、想いの深さを量るのには不適切だ。 キスをして、歯の浮くような愛の言葉を並び立てることなど誰でも出来ることで、そんな簡単な方法に逃げたくはない。 ましてや、それを強制されてやるなど、どこに心を差し挟む余地があると言うのか。 だから「嫌です」と言えば、機嫌は益々降下の一途を辿るのだ。どうしようもない。 喧嘩をした。 というより、欲を覚える人間の心など検討もつかない、その姿に見合ったお綺麗な心に苛立ち、そのくせあたふたと困惑する瞳の色にうんざりして投げ出した。 ……そんな感じだっただろうか。 キスそのものよりも、能動的な行動が欲しい。 言葉も行動も無ければ、想いの深さなど読み取る術はどこにもないわけで、信じるなんて恒久的でもない単語一つで生きていけるほどおめでたくは無い。 一番そういう方面に興味がある時期を中性で過ごした弊害なのか、淡白にも程がある。 だから「キスして」というささやかな要求もにべも無く却下される。どうしようもない。 そういう時に限って外せない仕事が舞い込んでくる。 たかがキス。 自分でもそう思うが、どうしてこう苛立っているのかシルフィスは自覚しないでいる。 出来れば今日の所は遠慮したかったが、まさか仕事に私情を挟むわけにも行かず、書類を手に扉の前に立った。 ノックを二回。 「シオン様。シルフィスです」 返事は無い。 もう一度ノックを繰り返し、部屋主の不在を確かなものにして、拍子抜けしたような、安堵したような、曖昧な感覚に襲われた。 しかし書類は渡さねばならない。 どうせ探し回って渡したところで、ここに戻らなければ仕事にならないのだ。まるで自分に言い聞かせるように結論付けて、ノブを回す。 瞬間、駆け抜けていく花の香。 風を孕んではためくカーテン。 その白地に映える、蒼の流れ。 扉を開いたことで風の通り道が出来たのか、執務卓上の書類が数枚、宙に舞った。 「シ……」 その名を口にしかけて、眩暈に遮られる。 舞い落ちる白の紙と共に現実が、ぱらぱらと弾けて乖離していく、そうしてまた収束していく、そんな感覚に捕われ言葉を失う。 再び強く吹きぬけた風が、更に2、3枚の書類を巻き上げたのに、シルフィスは我に返ったように後ろ手に扉を閉める。風の抵抗を受けて思ったよりも上がった音に、ひやりと室内へと視線を走らせた。 椅子の上に凭れたままの部屋の主はぴくりとも動かない。それに安堵したように、溜息を零した。 執務卓へと歩み寄り、手に持っていた書類を端に置く。扉が閉まれば風は緩やかにカーテンを撫でる程度だ。念のために無造作に転がっていたペーパーウェイトを乗せ、床に散った書類を瞳で追う。 指がそれを一枚一枚拾い上げた。 極力内容は見ないように努める。たとえ見てしまっても、それを人目が触れる状態に放置してあったシオンに否があるとは言え、シルフィスは相応というものを知っている。 どこから舞い上がったかまでは分からず、拾ったそれらを机の上でとん、と端を合わせるようにまとめて、椅子の横から身を乗り出すようにして書類の山の隣に並べた。 吐息が、近づく。 穏やかに寝息を零す、その呼気が。 頭の芯が、どこかで痺れた感じがした。 乗り出した身体を引くこともなく、誘われるように視線を落とす。 いつも何かを湛えたような琥珀の瞳は瞼の下に隠され、長い睫が頬に影を落としている。それだけで、少し、幼く見えた。 その瞳が、強くシルフィスの深い所で捕らえて離さない事を知っている。 肩掛けに流れる蒼の髪が、触れれば案外指に柔らかく絡む事を知っている。 その口が、いつも自分を先回りしてしまうことを知っている。 唇が、意外に柔らかいことを――― 指が、頬を伝って髪へと触れた。想像したとおりに、指に絡むそれは優しい。 肩から金の髪が滑り落ちた。 間近にある密やかな呼吸に、頬に血が上る。 呼気が触れあう、その間際。 ……寝込みを襲うのは、どうだろう。 言われてするのもどうかと思うが、前後不覚の相手に、他でもない彼が求めていた事をするというのも、卑怯な気がする。 起こさないよう緊張を溜息でそっと吐き出して、 「……ちぇ。キスでもしてくれると期待したんだがな」 身体を起こそうと離した腕を掴まれると同時に、ぱち、とシオンが片目を開いた。 「なっ……」 「そんなに嫌かねぇ?」 その声は少し、いつもの音色とは違った。 腕を引かれては、完全に身体を起こすことはできず、せめて無様にシオンに倒れ込んでしまわないよう、肘掛けに逆の手をかけて身体を支える。 「……起きていたんですか?」 「いや、寝てたんだけどな」 「いつから」 「シルフィスが俺に触れた時」 つい期待して、と悪びれもせずに肩を竦めて見せた。 シルフィスの声は、驚きに硬い。 「……そんなに、嫌なことか?」 シオンはもう一度問う。間近に射抜く琥珀。答えによっては、この関係を再考されるのだろう。 「寝込みを襲うのは、卑怯かと思って、」 その先は、少し考えるようにシルフィスは言葉を途切れさせた。 シオンが、驚きに中途半端に口を開いたまま、何も言わない。そう言う感情を、露出させることは珍しい。 彼は全てを先回りしてしまうから。 シルフィスの考えも、言いたいことも……したいことも。 望みを口にする前に、涼しい顔で、叶えてしまうから。 でも、やっぱりシオンも自分と同じなのだ。予想外が存在し、それに、驚く。 「それに」 シルフィスは口元を綻ばせた。 「したくてするんじゃなければ、意味がないでしょう」 案外、間違えずに、シルフィスは深い所で理解しているのだ。 してくれと言われたからしたのでは、結局シオンは満足できない。 シルフィスが、望んで、自発的なものでなければ。そうして、その前に先回りしてしまうのもシオンで。 く、と喉を鳴らしてシオンは腕を放した。負けたとばかりにその手を開いて見せる。 「俺が悪かったよ」 自由になった自分の腕を胸元に抱き込むようにして、シルフィスは身体を起こした。 それでもやっぱり、彼の望みが不当とばかりは、思わないのだ。シルフィスだけが正解なわけでも、ない。 「もし」 シルフィスが持ってきた書類を見つけて、手を伸ばしかけたシオンが、頭上からかかった声に顔を上げた。 「他を求めるからではなく、ただ、欲しいのなら、応えます」 他の何かが欲しいからキスを求めるのでなく。それならば、苛立ちもしなかった。 「王子にはなり損ねましたが、その方が、目も覚めるでしょうし」 それ、今日中にお願いしますね。 にこりと笑んだシルフィスに、シオンは今度こそお手上げとばかりに口端を上げて笑い声を上げた。 どんなに先回りして見せても、こうして肝心な所でシオンはシルフィスには勝てない。 やっぱり、大事なものを他に多く胸に抱えるシルフィスと、それでもただ一人だけに捕らわれていたいシオンと。 ベクトルの方向が違う以上、きっとこれからもこういうことは良く起こる。 でもそれが心地よいのが、またいけない。 覚悟したような視線を向けるシオンに、シルフィスは指を伸ばした。その、唇が言葉を紡ぐのを待つ。 「シルフィス、愛してるぜ」 「そういう台詞は頻繁に口にすると説得力が無くなります」 「ああもう、好き過ぎて困るよ」 「たらしの名が泣きますよ、シオン様」 「いいんだよ。言葉ってのは肝心な時に役に立たないんだから」 「…そうですね」 「なら、」 「……はい」 End 2004.11.27 颯城零 ば、ばかっぷる……? シルフィスは天然男前だと思います(笑) |