30.祈り
彼は本当に敵が多い。
いつも飄々と笑っているから、シルフィスは……いや、殆どの者がそういうことには気づかない。
気づかないよう計算されているのか、そういう性質なのか。おそらく両方だろう。
仕事をサボってはアイシュやキールを嘆かせているのも有名な話だが、華やかな血筋・肩書きに反して、その実、その労力の殆どは公表できないような、暗部の任務に費やされる。
無論、それを知るのもごく一部であるのだが。

シルフィスもまた、あの時傷付き、部屋に戻ることもままならなかったシオンと偶然出会わなければ、そうして、シルフィスが彼を支えて部屋に戻るだけの力がなければ、一生知ることは無かったのだ、と思う。
ほんの少し、タイミングがずれれば、彼はその痛みを笑みの下に隠し、おくびにも出さない。
そして軽口を叩いて、軽く来客者をあしらい、早々に部屋から追い出すのだ。何も気づかせること無く。


普段のあの人を食ったような態度はそのためのものなのだろうか。
いつから、彼はそうあるのだろうか。
逡巡は埒もない。答えはあろうはずもない。
一度だけ問うてみた。「疲れませんか」と。
そういう生き方は疲れませんか?
我ながら愚問だった、とシルフィスは瞬時に後悔したが、口をついて出てしまったものは仕方が無い。
シオンは、ほんの一瞬瞠目し、そうして、いつもの飄々とした笑みを浮かべ、肩を竦めて見せた。
「俺しか出来ないことをやってるだけだろ? あの手この手を尽くして手を抜こうとする俺にそんなこと甘いこと言ってちゃ、アイシュに睨まれるぜ。シルフィスは優しすぎる、ってな」
それ以上は立ち入らせない拒絶の言葉。
冗談として受け止め、笑うことを求められいると分かる口調。
そうしてそれにおもねようとして……無様にも失敗した。
笑おうとして出来ず、強張ったシルフィスの貌に、シオンは自嘲気味な笑みを浮かべ、それは人の悪い笑みへと移り変わった。
緩やかに近づき、壁際に立つシルフィスを腕の檻に捕らえ、間近に顔を寄せた彼から感じたのは、紛れも無く冷気だ。
耳元へと寄せた囁きも、確かに温度を持っていた。


「じゃあ、シルフィスが癒してくれるのか?」


シオンの痛みはシオンのものだ。
触れることの出来ない、冷たい刃に蝕まれている。
精神の痛みを、その存在のみで癒せる者もいるだろうが、自分にそれを出来ると自惚れることはシルフィスにはできない。
現に、シオンの言葉は内容に反して、期待するような響きはどこにも無い。
「申し訳ありません。僭越に過ぎました」いたたまれずそう言って辞したシルフィスを、シオンが引き止めることは無かった。


あれから日々は何も変わらず鮮やかに過ぎていく。
ダリスへの潜入任務を終え、念願の騎士としての位を授かった後も、その彩の中に影を残す……あの冷たさ。


今こそ心より分化を願う。
今までも、分化を願わなかったわけではない。
けれど、それは未分化な半端者であることが嫌だからという、消極的な理由でしかない。


今こそ、心より分化を願う。

 もっと鋭く剣を振るう腕を。
   合わせた剣を押し返すことの出来る力を。
     何よりも早く駆けつけることのできる足を。
       呼気を乱すことない体力を。

それを、可能にする身体を。


あの、冷たい世界に立ち入る力を。
どうか―――


End.


2004.11.9 颯城零