48.予言者
放っておけばガラスが外れそうな勢いで叩かれた。
ともすれば聞き逃しそうな繊細な密やかさは今宵に限ってはなりを潜め、シルフィスは手にしていた剣を壁に立て掛けて慌てて窓辺へと駆け寄った。
黒一色に塗り籠められた月の無い闇を背に、窓の向こうで悪びれない顔が笑っていて、駆け寄った勢いで窓を押し開ける。
「うわっ、と」
「シオン様!」
跳ね開いた窓に身体を危うくぶつけそうになったシオンが、僅かに身を引いて、それでもへらへらと笑っている。
咎めるようにきついシルフィスの声は、それでも潜められていた。
当然だ。窓を出入り口と勘違いしているのではないかというシオンの所業は、恥ずかしながらも、上司を含め騎士団に暗黙の了解として多少黙認されている節がある。……確認したくはないので、あくまでシルフィスの想像ではあるが。
それでも未だ未分化であり、半ば特例扱いである騎士見習いというシルフィスの立場は微妙だ。相手がシオンとはいえ、見て見ぬ振りには限度があるだろう。
「よー、シルフィス!相変わらず美人で俺は嬉しいねぇ」
シオンも承知の上だろうに、そんなシルフィスの危惧もお構いなしに陽気に声を上げる。
眉を顰めたシルフィスの鼻腔を、ぷんとアルコールの匂いが掠めた。
「……シオン様、酔ってますね!?」
「そうそう、お前にな」
「もう、とにかく入ってください」
ご機嫌に笑顔と戯言撒き散らすシオンに、埒があかないとばかりに襟首を掴んで室内へと引き入れる。
しなやかに均整の取れた肢体も張り詰める緊張も、今は綺麗に力を失っていて、シルフィスの力に容易く屈する。逆の手で窓を手早く閉める間も、シオンは無駄に楽しそうだった。
これまでも酒の席に同席したことはあったが、どれほど飲んでもシオンは変わらず飄々としていて、だからこのような姿は初めて見る。
「シルフィスは大胆だなぁ」
「どれだけ飲んだんですか」
「さ〜、どうだったかな。お前さんに会えた。だからいいだろ」
何かを含んだ一見脈絡の無い普段の言動とは異なる、単純に要領を得ない物言いは紛う事なき酔っ払いだ。
発音も明瞭とは言えなかった。引き寄せた服越しに伝わる熱、律を失った息遣い。
気恥ずかしさに軽く突き放すと、シオンはよろけるようにソファへと身を沈め、だらしなく手足を投げ出した。そうしてまた鋭さを失った琥珀が笑う。
よくここまで辿り着けたな、と感心する傍ら、やはり呆れが大きい。
「シオン様、私明日が早いのですが……」
暗に帰れという意味を含む言葉だ。今の心許ないシオンを叩き出すほど非情になれないシルフィスの語尾は遠慮がちに尻すぼむ。
部屋の隅へと視線を走らせれば、それを追う気配があった。
立て掛けられた剣。
セイリオスより賜ったそれは綺麗に手入れを施され、装飾がランプの明かりを弾いている。
明日の役目を待ちわびて。
「……お前の部下は立派すぎだ」
「え……?」
ぽつりと落とされた声は、シルフィスに向けられたものではないようで、酔いが醒めたのかと思ったのも一瞬、合わさった視線にへらりと頬を緩ませる。
「人の希望無視して、思いっきり騎士に邁進してるしなー」
「何を今更言っているんですか」
「愚痴は酒に付きものだ。明日には忘れる」
「私は?」
「災難だなあ」
筋はどこにも通っていないが、こんな時でも受け答えするだけの頭は回転しているようだ。呆れた。
酔っ払い相手だと分かっているのに真面目に取り合ってしまうのは、もう性分だろう。
「人に阿り、夢を諦めてしまえば、それこそ貴方の言う気高さを失ってしまうと思うので」
「だから、他愛もない愚痴だ」
「本人に言うものじゃないでしょう、それ」
「シルフィスは男前だなー、本当に」
シオンは対処に困って傍に立っているシルフィスを見上げ、心底嬉しそうに笑う、彼の思考回路はどれだけ複雑に繋がっているのだろう。
酒が入っても単純な神経は開通しないようだ。
「……どういう結論ですか」
「あ、いいぜ、寝て」
「シオン様は」
「眠り姫鑑賞」
ほら寝た寝た、とやはりやや間延びした声で手を閃かせたシオンに、深々と嘆息した。
「眠れるわけ無いじゃないですか」
「じゃあ一緒に寝るか?」
「余計に駄目です」
未分化だからとか、そういう言い訳を使う時期はとっくに過ぎた。
「シオン様が傍に居て、眠れるほど私の想いは浅くないです」
それでもやっぱり恥ずかしいことに変わりはなく、潔いくせに顔は紅い。シオンはというと、虚をつかれた様に数度、瞬いた。
来る、と思った瞬間に盛大な笑い声が上がる。
「あー、もう、まいった」
シオンは涙すら浮かべる勢いで笑いながら身を起こした。
「うわっ」
肩に腕が回されたかと思うと、浚われるようにして引き摺られる。先程までの俊敏さの失せた仕草は演技だったのかと疑う程だが、服の下の鍛えられた腕はやはり熱い。
そんなことも自覚したのは、倒れこむようにベッドへと引きずり込まれた後で、大きくはないベッドが悲鳴のように軋んだ。
「シオン様!」
「いいからいいから。ほら、寝るぞ」
「人の話をっ」
「夢で会おう。な?」
シオンはシルフィスを腕に抱きこんだまま既に瞳を閉じて寝の体制に入っている。
被さったままの腕は重く、騎士を目指すシルフィスとしては情けない限りだが、外せそうになかった。相手がシオン故に強く出れないのだと思いたい。
明日のためにも無駄な体力は、と自分に言い聞かせて、不本意ながらも重なる体温を極力意識外に追い出すようにして目を閉じた。
そもそも部屋に入れてしまったのが負けだ。
しかしシルフィスがシオンへ非情に対応できるわけがないのだから、それならもう、彼を選んだ時点で自分は負けているのだろう。
「な、シルフィス。結婚しようか?」
耳元で呟かれた言葉に、ぎょっとしてシオンへ顔を向けると目は閉じたままだった。口元には笑みが浮かんでいる。
部屋に入ってきた時からずっと違和感を感じていた。酷く無防備なのだ。
浮かべる笑顔が。
「……私はまだ分化前ですけど」
「そんなの細かいことだ」
そうかなぁ、と思ったが黙っておいた。

そうかなぁ。
肯定なのか否定の意なのかは、シルフィス自身判断がつかない。
だけど何だか笑いたくなった。
胸が締め付けられるように泣きたくなった。
「そういうことは素面の時にお聞きします」
自分にも説明のつかない感情を極力抑えたせいで、酷く無機質なものになる。
呼応するように小さくシオンが笑って、それきり声は途切れた。
眠ってしまったようだ。

やっぱりこれも明日になったら忘れてしまうのだろうか、と考えて、少し寂しくなった。
それなら。
帰ってきたら、今度は自分からもう一度言ってみようか。
間近な寝息は思ったほど心乱すものではなく。
あんまり穏やかだから、引きずられそうになる。
驚くだろうか。
それでも不敵に笑うのだろうか。
それは悪くないアイデアに思えて、シルフィスは笑みを零し、そっと瞳を閉じた。


End.

2005.06.03 颯城零