◆戻
貴方の選ぶ色で塗りましょう? 057:スケッチブック 「くしゅん!」 大きなくしゃみが横合いから一つ響いて、シルフィスは思わず足を止めた。考えに没頭してたため殆ど反射的だ。 明け方から降り始めた雨は既に路のあちこちに溜まって流れを作り、立ち止まった足先で跳ねる。 シルフィスはといえば、大きく平らなアイボリーの箱を脇に抱え、エメラルドグリーンの傘で雨露を凌いでいる。 「おはようございます、シルフィス」 喫茶店の軒下、余韻で口元に手に当てたまま、くしゃみの主は照れたように笑った。とはいえ、傘と同じ色を髪を持つこの人の笑顔以外の表情というものを、シルフィスはついぞ見たことは無かったが。 「おはようございます、イーリス……ってびしょ濡れじゃないですか!」 「あはは、これも三文の得の内なんですかねぇ?」 そういって笑う白皙の貌にも髪がぺったりと張り付いている。まだ冷たさを帯びる湿った朝の空気は衣服を乾かす役目を果たすことなく、かき上げた髪の先から、衣服の裾からぽたぽたと地面に水滴を落とした。 もう一度くしゃみを落とすに至って、シルフィスはずかずかとイーリスへと歩み寄る。 「笑ってる場合じゃないですよ、風邪を引きます!」 言うと同時に持っていた箱を押し付ける。面積のあるそれを胸元に押し付けられて、イーリスは戸惑ったように見下ろした。 「ええと?」 「お店の洗面所でも借りて着替えてください」 「え、でも、これは」 戸惑いは尚深くなった。 いくらイーリスが細身とはいえ、女性に分化したシルフィスの服が入るわけが無い。 そう都合よく男物の服が転がっているわけではないのだから、これはシルフィスではない誰か、男性への贈り物だろう。質素だが趣味のいい箱は、どうやら買った店らしき紋が刻まれている。 「選択の余地はないでしょう? 命より大事なものなんてないんです」 「大袈裟ですよ」 「こないだまで死にそうだった人が何を言っているんですか。風邪は万病の元なんですよ。早く」 ぐいと更に箱は押し付けられた。シルフィスに引く様子はなく、こうなったらとことん頑固だ。イーリスは困ったように吐息を落としてそれを受け取る。 安堵したような笑みを浮かべるシルフィスを見るとまるで、手のかかる子供になったような気分される。イーリスには至極複雑だ。 「では、お時間があるなら、貴女は席で待っていてください。お茶くらい奢らせていただかないと」 「分かりました。暖かい物を注文しておきますから」 雨足は弱まる気配を見せない。 頷くシルフィスはどこまでも過保護で、イーリスは降参とばかりに肩を竦め、ふたりそろって喫茶店の扉をくぐった。 「お待たせしました」 丁度ふたり分の紅茶が運ばれてきた頃、イーリスはシルフィスの向かいの席へと手をかけた。 淡い蒼から翠のグラデーションの模様が袖口と裾に入った白の長衣、重ねる黒の上着。袖を折り曲げ、あわない丈をベルトで調節してある。確実に一回り以上大きい。 肌触りからして質は悪くないし、センスも良いと言えるだろうが、イーリスの雰囲気とは異なっている。彼のためにあつらえたものではないのだから当然といえば当然だ。 椅子に腰掛け、カップより立ち上る湯気越しのシルフィスは、少し困惑したような表情を浮かべていて、今更それはずるいとイーリスは思ったが、顔には出さなかった。 「着替えている途中で気がついたんですが」 「つかないでください」 「今日、どこぞの誰かさんの誕生日、でしたよねえ?」 「……気のせいです」 雨の町並み、窓の外へ逸らされた横顔は少し拗ねているようで、イーリスはくすくすと喉を鳴らす。 「もう着てしまってから言うことではありませんが、本当によかったんですか?」 「いいんです」 今度こそシルフィスはイーリスへと目を向けて、少しだけぎこちなく笑った。 店内は暖かく、紅茶の香り、少し着慣れないけれど柔らかな服、鑑賞に耐える美しい少女、柔らかな声音、その全てが芯まで冷えていたイーリスを落ち着かせる。 「洗ってお返ししますね」 「いりません」 「……じゃあシオンに返しましょうか」 「余計に駄目です」 「そうですねえ、私も命が惜しいですし」 冗談めかした言葉に顔を見合わせひとしきりふたりで笑った後、シルフィスが改まったように手の中でカップを弄びながらイーリスへと、もうこだわりのない笑みを向けた。 「本当に、いいんです。どうせ、迷っていましたから」 「迷う?」 「はい、シオン様、先日服を殆ど捨ててしまったんですよ」 「ああ……」 イーリスは曖昧に頷く。 滅多に会うことはないが、長年の友人を思い浮かべる。彼の服装は殆ど貢物でまかなっているらしかった。 それを全て捨ててしまったんだろう。極端にも。 不要なものを切り捨てるのに容赦が無いのは相変わらずらしい。 「勿体無いですよね」 「そうですか?」 「だって、服に罪はないのに」 そう言って困ったようにシルフィスは笑った。 腹立たしいのは本当だろう。だが、シオンの行動の理由を思えば嬉しくもある。シルフィスはどこまでも正直だ。 「それで、貴女が服をくれないと裸でいるしかないとか、ダダを捏ねましたか?」 「理不尽です」 「構わないから裸で王宮を闊歩させなさい」 容赦の無いイーリスの言葉にシルフィスは小さく噴出す。イーリスもまた自分の言葉の意味を想像して笑った。 紅茶はもう少し温くなっていて、酷いですよ、と笑うシルフィスの声と共に飲み込む。 「甘やかさなくていいんですよ」 「ああ、いえ、それで迷っているわけではないんですが……ええと」 言葉を探すようにシルフィスは言い淀んだ。 子供子供だと思っていれば、そうやって迷ってみせるのだから、侮れない。 「……私は別に、シオン様を私の色に染めたいわけではないんです」 ぽつりと零された言葉、その意味をイーリスが咀嚼する前に、 「こーら、浮気モン。こんなところで何油売ってんだよ」 「わ!?」 頭上から声が降って、ふたり同時に声を上げて仰向いた。噂をすればなんとやら、当の本人が面白くなさそうに見下ろしている。 「シオン様!」 「おや、シオン」 対応の仕方は性格の違いだ。シルフィスが数度瞬く間にシオンはとっとと隣の席に腰を下ろした。 シオンは見慣れない服を着ている。黒の上下。ローブではない。イーリスと違ってサイズの相違やそぐわないということは無いから、おそらく手元に残った数少ない衣服の一つなんだろう。 シルフィスは首を傾けて店内の時計を見る。結っていない蜂蜜色の髪が肩から零れて落ちた。 「約束の時間はまだですよね?」 「少しでも早く会いたい乙女心を察しろ」 「察してもいいですけど、油の売り具合でシオン様にどうこう言われたくないです」 「ぐ……」 前科を持ち出されては返す言葉もなくシオンは押し黙る。 「乙女心ねえ」 イーリスの涼やかな笑い声に、ふたりの視線が集まった。 「確かに乙女ですね。私のこの格好にも気付かないようでは」 「イーリス?!」 今度はシルフィスがぎょっとした声を上げる。 シオンは今更気付いたかのようにまじまじとイーリスを見た。 同じく自分を見る淡い翠の瞳が僅かに揺れたのを見て取って、満足したように密やかに瞳を細める。今更気付いたって教えてなどやる気など、イーリスには毛頭ない。 「……そういやどうしたんだその姿は」 「いろいろと、試し塗りをしているところです」 にこりと笑んで、濡れた服を入れた袋を手に席を立った。 サイズも色も、雰囲気すらも、何もかもちぐはぐの服に身を包むイーリスの、答えにもなってない言葉に向けられる怪訝な琥珀の瞳は綺麗に無視することにした。 「シルフィス」 はらはらと動向を見守るシルフィスが、呼ぶ声に反応して見上げてくる。静かに笑みを向けて、 「それなら、一緒に買いに行かれてはいかがですか? ふたりで色を選ぶなら、それは素敵な絵が描けると思いませんか」 一瞬きょとんと大きな瞳を見開いたシルフィスはすぐに目元を紅くする。 イーリスもいい加減気恥ずかししくなったので、伝票をさり気なくシオンの前へとずらして目を逸らす。 話についていけず胡乱に片眉をあげるシオンへと、追求を許さない最高の笑顔を送っておいた。 「それでは、お邪魔のようですし、私はこれで」 雨の上がった街路地を、着慣れない服で歩く。 路のくぼみに溜まった水が、太陽の光を弾いてきらきらと煌めいた。 自分の瞳は光に弱い。それがちょっと勿体無いとイーリスは思った。 必要とあれば言い負かす術などシオンにはいくらでもあるだろう。 それをしないのはひとえにシオンが負けてもいいと思っているのだ。他でもない、シルフィスに。 自分とシオンは似ていると、イーリスは思う。 性格ではない。住まわせている心の闇の色が。自由を愛する性質が。 だというのに、決定的に何かが違う。 例えばそれは、彼の持つしがらみの多さ。シオンは徐々に、その身をこの地に繋ぎとめる鎖を自ら増やしている。 それでもシオンは自由に笑う。どこまでも。 負けていても、鎖に足を取られても、彼はどこまでも自由だ。 それが自分とシオンの差なのだろう。 そこに在るのは僅かな敗北感と羨望。 4年の歳月で埋まるものだといい。 そぐわない服が、馴染む日がくるといい。 「まあ、4年もありますし」 いくらでもこれから自分は自分の色を選んでいける。負けないほど鮮やかに、幾重にも塗ってみせよう。 けれど。 その間に、一緒に何かを描ける人を見つけることができるだろうか。 あの光が、自分には少し眩しかったことを。 それを正視することができなかった弱さを。 少しだけ、残念に思った。 End. 2005.05.20 颯城零 シオン誕生日(遅)シオン×シルフィスver. と、いいながら祝ってない……! |