76.クレヨン ◆戻
ふと流した視線の先、店先に飾ってあった淡い口紅の色に、シルフィスを思い出した。 来週の初めには正式に騎士位を拝命する彼女を思えば、こういうものも必要になるかもしれないと、手に取ったのが運のつき。 速攻で寄ってきた香水の匂い撒き散らす愛想の良い店員に、たっぷりとお勧めやらからかいやらを含みつつあれこれ聞かれた挙句、いざ買うに到って、 「プレゼント用ですか?」 と笑顔で問われればいたたまれなさが先に立った。 「……いや、そのままでいい」 思わずそう答えたレオニスに非はないだろう。この場合。 大体において、こういったことは不得手だ、とレオニスは内心苦く思う。 笑顔の一つでも浮かべて「頼む」と言う、それだけのことが出来ない。 例えばそれが、どこぞの筆頭魔導士なら違和感もないのだろうが、気構えてしまう時点できっと自分は駄目なのだろう。 宿舎への帰路を辿りながら、どこか落ち着きなく着慣れたコートのポケットに手を突っ込んだ。 指先に触れる冷たく硬質な感触に、いたたまれなさはいっそう増した。 それは長年諦めに身を浸していたレオニスにとって、驚くほど心静かな感情。 ただ愛しい。傍にあれば心が穏やかに、温もりが緩やかに広がっていく。程よい陽の光が全てを諦めていた自分の中に落ちる。 彼の者はまだ幼い。その成長を見守りたい。 自分にも、まだできることがあるというならば、出来得る限りの事を。 かつてレオニスの知る激情とは、余りにも隔たっていたけれど。そんな愛し方もあるのだと知った。 「隊長!」 耳に馴染んだ呼ぶ声に、レオニスは一瞬硬直し、焦るようにポケットから手を出す。 振り返れば、結い上げた金の髪揺らしてシルフィスが雑踏の中駆け寄ってくる姿があった。 どんな雑多な中にも紛れる事はないその存在は、今のレオニスにとってかけがえのないものだ。 身の内に染み渡るように広がる暖かさに押されるように、レオニスは口元を和らげシルフィスを迎える。 耳に馴染んだとは言え、僅かに声音は柔らかく、その音程を高くしている。共に在れば変化には気付きにくいから、もしかしたら僅かにではないかもしれない。 隊長はやめないかとは告げたし、騎士位を受ける事が決まっているシルフィスは、正確には既にレオニスの部下ではない。全てを受け入れたのはシルフィスだが、やはり呼称は一朝一夕では変え難いらしい、未だにシルフィスはレオニスを「隊長」と呼ぶ。レオニスもまた、任務中の馴れ合いを好まないため2人きりでもない限りそれを咎めることはない。己が騎士であることへのずっと蟠っていた痞えが、浄化されたせいもあるだろう。 「シルフィス。買い物か?」 「はい。隊長は、お帰りですか?」 すぐ傍で足を止めたシルフィスの息が少し上がっている。 女性へと分化したとはいえ、長らく身軽な服装に慣れていたシルフィスにとって、ドレスは物慣れないようで男の子のような軽装を好む。それが相俟って、女性の匂いは未だ乏しい。化粧なども使用している様子はなかった。 「ああ、戻るところだ」 「ご一緒してもいいですか?」 「用事は済んだのか」 「もう過剰摂取しました」 そう笑って、シルフィスは手にしていた紙袋を軽く持ち上げてみせる。ふわりと焼き菓子の甘い香りが流れてくる。かなりの量が、紙袋の外側からでも見て取れた。 それだけでもう、レオニスは胸焼けを起こしそうになる。 「全部食べたら、はちきれるだろう、それは……」 「隊長は、一口で撃沈できますね」 レオニスに並んで歩きながら、明日姫とメイと一緒に食べるんです、と楽しげにくすくすと喉を鳴らす。 分化後も、メイやディアーナとの関係は当然のように変わらず続いているようだった。否、女性となったからこそか、男性になってしまえば変わる関係もあっただろう。 そういう意味では、あの2人はシルフィスをもともと同性として扱っていたのかもしれなかった。どちらかといえば男として扱っていた自分とは真逆にある。 「あ」 小さく声を上げて隣を歩くシルフィスが立ち止まる。 「シルフィス?」 同じく足を止めて、その視線の先を追う。 ショーウィンドの中に鮮やかなグラデーションを作る、並べられた数々の口紅。 ガラスに移る姿でレオニスが自分の意識を追ったのだと知って、シルフィスは僅かに頬を染めると、言い訳のように口を開いた。 「あ、あの、メイが、これからは必要だろうって」 だから自分が望んで欲しいわけではないのだ。 別に慌てて否定することでもあるまいに、焦る姿が逆に年頃の女の子のようで笑みが零れた。 今自然に渡してしまえばいい。そう意識している時点で自然とはいえないかもしれないが、これほどのチャンスもないだろう、決意してポケットに手を入れる。 何の包装もされていないそれを手の中に握り締めた瞬間。 「なんだ、欲しいのか?シルフィス」 すぐ横合いから掛かった声にぎくりと身を竦めた。 「……シオン殿」 「シオン様!……いえっ、そういうわけではなくて」 「俺が買ってやろうか?」 「えええ?!」 いつの間に隣へと来ていたのか、名を口に乗せればレオニスにも笑顔を見せる。 相変わらず本意の掴みにくい軽い態度で申し出るシオンに、シルフィスは恐縮したように首を横に振る。 「そんな、とんでもありませんっ!別に欲しいわけではありませんから」 「ふぅん?」 ちらりとシオンは隣のレオニスを見て、また笑うと意味ありげに曖昧な返事を返した。 シオンに何かしらの感情を見せるほどレオニスは愚かではなかったが、ポケットに入れたままの手は硬直したまま動かない。 断られても傷ついた様子一つなく、どこまで知っての言動か、底の知れなさがある。 そういえば、決して仲が良いとは言えない自分にすら、シオンは嫌な顔を見せることがない。この人なら、何の不自然さもなく、女性に贈り物をする姿もさまになるのだろうとレオニスは思ったが、貰う機会の方がきっと何倍も多い。 「ま、賢明か。……知ってるか?男が女に口紅贈るのには、『キスが欲しい』って意味があるんだぜ」 「じゃあ、くれそうな方にどうぞ」 「俺が今口説いてるのはシルフィスなんだが?」 「シオン様!もう、からかわないでください」 「そうだな〜、退散するか。隊長殿に睨み殺される前に」 ぎゅうぎゅうとシオンの背を押して、自分もろともショーウィンドウの前から退こうとするシルフィスに笑って、シオンは大人しく押されるままに歩く。 「睨んでなどおりません」 真偽の程は初耳のレオニスには解らないが、そんないらない説を言い始めた者もろともシオンをこの世から抹殺したいと一瞬も思わなかったといえば嘘になる。しかし目つきの悪さは生憎生まれつきだ。 「シオン様っ!」 「ははは、またな、お二人さん」 「お気をつけて」 シルフィスの咎める声とレオニスの低い棒読み口調の挨拶を背にひらひらと手を振って、軽い足取りで雑踏へと消えていった。 シオンもまた、雑踏に紛れない存在感を持っている。人々の生活、その喧騒に後ろ姿が完全に見えなくなるまで2人で見送って。 「……シオン様って神出鬼没ですよね」 「鬼神の方が可愛いものだ」 確かに、とシルフィスは笑った。 心よりの本音だったが、冗談と受け取ったらしい。どちらにせよ、尚更渡しにくくなった事だけは確かだった。 陽は既に傾きはじめている。 またの機会もあるだろうと、ポケットより手を出して踵を返すと、シルフィスは後ろをついてくる。 「帰るぞ」 「はい!」 長く路に伸びる影の上を、雲の陰が流れていった。 しかし、タイミングとは一度逃すとなかなか掴まらないもので。 持ち主を見失ったままの口紅がすっかりとコートのポケットの住人を決め込んだ頃、悲劇は起こったりする。 「隊長、倉庫の鍵を貸していただけますか?」 袖口のカフスボタンを留める。穴が狭くできていて、片手では留めにくい。余り得意な作業ではない。 同じく式典のための白い正装の騎士服を着込んだシルフィスが顔を出して尋ねた。 「ああ、コートのポケットに入っている」 ボタンを留める指ごとつれて、背後の壁を指差すとそちらへと向かう気配がある。 それきりカフスボタンへと集中し、漸く留まったところで未だ背後の気配が動かぬことに気付いた。 「シ、」 「隊長の……馬鹿ー!!」 「な……?!」 レオニスが振り返るより早く、鼓膜を震わせる声が響き、どん、とその背に何か重みが乗る。 敵相手ならいざ知らず、こういう不意打ちには滅法弱い。動転した時間は一瞬か数分か、からからと床に金属音が響いて我に返った。 「もう知りません!」 背の重みがなくなったかと思えば、扉を乱暴に閉める音が追い討ちをかける。 「シルフィス!待……っ」 振り返りざま音のした床へと目を走らせると、果たしてそこには見覚えのある口紅が転がっていた。 包装すらされていないものだ。何処かの女性から預かったと思ったにせよ、シルフィスでない誰かに贈ろうとしていると思ったにせよ、先程の剣幕からすればいらぬ誤解を与えたに違いない。 「待て、シルフィス!」 勢い良く扉を開けてもその背はもう見えない。 代わりにノックしようとしていたらしきガゼルが驚いたように飛びのいた。 「た、隊長?」 「シルフィスは?!」 「シルフィスなら今そっちに……ってたいちょ……ぉ〜?!」 すれ違った方向を示したとたん駆け出したレオニスに、戸惑った声は最後素っ頓狂に掠れる。 しかし構う余裕もないレオニスが立ち止まることは無く、ガゼルは呆然とその背中を見送った。 でかでかと赤いルージュで『女たらし』と書かれた長身の背に翻る白いマントを。 その後の如何に決着したかは定かではない。 ただ、騎士団・宮廷中を席巻する人生30年、実に二度目の噂話を提供した事は確かだった。 真に心の平穏がレオニスに訪れるのはいつのことか。 End. 2005.03.18 颯城零 不憫な原因の大半はシオンっぽいが隊長頑張れ(お前が言うな) 隊長ってRPGだと他の能力は素晴らしくても運1固定の人っぽい(笑) |