80.毒林檎


「あたしたちの世界ではね、林檎っていろいろ意味があるのよ」


台風のような
騒がしい
滅茶苦茶だ

メイを評価する言葉は得てして大味だ。
けれど意外に繊細な指は、器用にくるくると林檎からその紅い皮を落としていく。
「そうなんですか?」
「うん、神様が食べるなって言った実だったり、重力を知るきっかけだったり、お姫様を覚めない眠りにおいやったりするわけだけど」
「……あの、」
「あはは、ごめんね、解らないよね」
「すみません……」
あっけらかんと笑うメイはしかし、どれだけのものをもう戻れない世界に置いて来たのだろうか。それは誰にも解らない。この世界の、誰にも。
思わず謝罪を告げるシルフィスに、「なんでシルフィスが謝るのよ」ともう一度笑って、瑞々しい白い肌を露にした林檎を一欠、差し向けた。
受け取ろうと手を出しても、メイは首を振って更に林檎をシルフィスの口元へと近づける。意図はすぐに察することができる。選択肢はいくつかシルフィスの脳裏に浮かんだが、結局大人しく唇を開く。どれをとっても無駄な悪あがきに思えた。
メイが満足そうに瞳を細めるのを見て、思わず目を逸らす。なんというか、それは口内に広がる瑞々しい甘酸っぱさに似ている。
頬が熱い。
「甘い?」
「美味しいです」
「ま、だいたい総じて禁断の実って意味合いなんだけどね」
シルフィスの返事に頷いて、メイは自分の口にも切ったばかりの一欠を摘んだ。
細い指だ。シオンにも思うことだが、こんな繊細そうな指から凶悪な魔法が飛び出るわけだから、魔導士というのはずるい。
村では殆ど自分以外の全員が魔法を自在に操ったが、もっと穏やかな印象がある。
彼らの使う魔法はまた一線を画しているような気がした。根本から何かが乱される。覆される。それは禁断の匂いがする。
「禁断の実を口にしたら、厄災が降りかかったりするの」
「何故、それが林檎なんですか?」
「さー?それは言い出したずっと昔の人に聞いてみないと。駄目だって言われても、食べずにいられないほど美味しいってことなのかな」
「でも、食べたら悪いことが起こるのでしょう?」
「危険な誘惑は甘いって相場が決まってんのよ。あたしにはちょっと解る気がするなー」
残りの林檎を切り始める。切った側から、それはシルフィスとメイの口へと消えていった。
「ちょっとシルフィスに似てるよね」
「メイの場合、駄目って言われるほど食べたくなるでしょう」
「あはは、ばれた?」
「身を滅ぼしますよ」
「それはちょっと困るなあ。共に堕ちてくれるアダムも、助けてくれる王子様もいないし」
肩を竦めて大きな黒い瞳をシルフィスに向ける。シルフィスには解らない言葉が混ざる時、メイは少し形容し難い表情を見せる。
それはシルフィスとの、普段は感じない一年の年の差というものかもしれないし、シルフィスには分からない遠い故郷ゆえのものかもしれない。
俯き手元の、甘く、そして少し酸っぱい林檎を見つめていると、メイの視線も同じ実を見ていた。禁断の。
「……よく、わかりませんが……私は、メイが危ないのなら助けますよ」
なんとなく気まずくて零した言葉に、メイは弾かれたように顔を上げる。かしゃん、とごろん、と鈍い音と涼やかな音が同時にして、一気に顔を紅く染め上げた。
音が林檎とナイフを落としたものだとか、染まった頬が林檎の紅にも負けてないとか、そんなどこに重点を置くべきか解らない思考に考えを巡らせる間もなく、気がつくとメイは机に突っ伏している。
「え!?あ、メイ!?」
慌てて呼んでも反応はない。
「メイ?どうしたんですか」
揺さぶってみても、やはり突っ伏したまま。ただ、転がって少し汚れた林檎が、机と一緒に小さくその身を震わせた。
抱き起こそうとして、片手にはまだ林檎を持っていることに気付く。
「……メイ。食べ物を粗末にしたら、それこそ罰があたりますよ」
「ちぇ。キスでもしてくれるかなーと思ったのにー」
静かに声をかければ、なんでもない残念そうな声が返って、シルフィスは溜息を落とした。
身を起こしたメイは、そのまま机に肘を突いて頬杖をつき、シルフィスを見上げてくる。まだ少し顔が紅い。
「どうしてそうなるんですか」
「林檎を食べて眠りについた姫を起こすことが出来るのは、王子様のキスってのが定番なのよ」
「……私は女ですが」
「うん、知ってる」
メイはあっさりと頷いた。
大きな瞳に見つめられると、なんだか居心地が悪い。
何でも見透かされてしまいそうな、そんな気分になるのだ。覗かれて困ることなど、何もない筈なのに。
「あーあ、なんでシルフィスは王子様じゃなくてお姫様になっちゃったんだろ」
「す、すみません」
「謝ってばっかり。冗談に決まってるでしょ〜。……そういうシルフィスも好きだけど」
何の気負いもなく、にっこりと笑われれば、いよいよどうすればいいのか判らない。
メイはシルフィスの、林檎の欠片を持ったままの手に指を伸ばし、両手で包んで引き寄せる。
「本当よ。あたしは別に『男』と恋愛したいんじゃないもん。シルフィスと恋愛がしたいの」
引き寄せられた腕に、さらりと俯いたメイのダークブラウンの髪が触れたかと思えば、林檎を半分、齧られた。しゃり、と振動が指に伝わる。
「……甘いですか?」
「うん、凄く。ご馳走様」
顔を上げたメイは、シルフィスの言葉に上出来とばかりに目で笑う。落とした林檎とナイフを拾い上げると、席を立った。
「あたしももちろん、お姫様がピンチなら助けちゃうわよ?」
「……心強いです」
メイの率直さは好ましいと思う。でも、自分に向けられるとその光は少し強すぎて、直視できない。
困って返せば、メイは楽しげに笑って、少し茶に色の変わり始めた林檎を手に部屋を後にした。

戸惑いの種類すら、見透かされている。



「本当にシルフィスってば、油断ならないわー」
井戸で洗った林檎を手に、戻る道すがらメイはぱたぱたと片手で顔を扇いだ。なんだか、まだ顔が熱っぽい気がする。
「なんていうんだろ、アレって。天然たらし?」
困るなあ。
メイは呟く。
これ以上ライバルは増えて欲しくないのだが。
不思議と、シルフィスが女の子に分化したことにショックはなかった。シルフィスがシルフィスである、それだけが大事なのだ。
いらないライバルは抱え込む羽目になったが、それはまあ、男になったらなったで別の場所から沸いてくるのだろう。
女性へと分化し、少し柔らかさを帯びた翠の瞳が、自分の言動に喜び、困惑し、時に憤りを見せる、その感情の色を綺麗だと思う。
伝えようと思っても、口を出れば「好き」っていうありきたりの言葉にしかならない。追いつかない。
当の本人は気付かない。あれは、才能かな。鈍さの。
困るなあ。
だけど譲れない。困難すら甘く感じる、これは確かに自分の性分なのだろう。

「ただいま〜。ちゃんと洗ってきたよ」
部屋の扉を開けても、返事はない。代わりに風が耳朶を掠めて吹き抜けていった。
「……シルフィス?」
室内へと視線巡らせれば、開け放った窓辺に置いた椅子に凭れ、風に靡くカーテンの音をBGMに、目的の少女は転寝をしている。
和らいだ午後の陽を、金の髪が光を弾いて受け止め、夢を追いかけている。
皿の上に林檎を放置して、傍へと寄った。
優しい夢だといい。
触れた金糸は、光を吸い込んで太陽の香りがした。


「……眠っているのが姫で、通りかかったのが姫でも、やっぱりキスはしておくべきよねえ?」



End.



2005.06.23 颯城零