89.行雲流水
「まーた振られちまった」
そう肩を竦める彼の台詞はいったい何度聞いただろう。その内容の割には大して揺るぎもせず低く軽やかに響く声は、一体自分に何を期待しているのだろうか。
ちらちらと瞳に傷ついた光が過ぎる、そのことだけは確実なのに。けれど、その理由は雲を掴んでいるように、形にならない。
慰めが欲しいのならどちらかというと自分は不向きなように思える。
立場的にも、人間的にも、人選を誤っている。
それでも最初の頃はまだ、30年生きても思うままに操れない言葉を精一杯に駆使したような気もするが。
もう、いい加減言葉も尽きる。確実に否はシオンにある。

それでもシオンはここにやってくる。
真意が、つかめない。



ざあ、と激しい雨が窓を叩く音にレオニスは読んでいた本から顔を上げた。
夕方過ぎから降り出した雨は雨足を強め、ひんやりとした空気が鈍い重たでじわりと脳を浸食する。部屋は薄暗く、普段なら心地よく感じられる雨に深まる緑の匂いも、何処か邪魔だ。
溜息をついてレオニスは机の上の書類に視線をやった。これを渡すべき相手は今日も不在のようだ。何もこんな日にまで出歩かなくても、とレオニスは思うのだが、シオンは知ったことではないらしい。明日の朝でもかまわない、けれど、朝からきっちり執務室に居る確立は極めて低い相手の事を考えるとやはりあまり好ましくはなく、出来れば今夜中に渡してしまいたい、そんなことを考えながら今日に限って諦め悪く、もう朝練に差し支えそうな時間まで起きている自分を叱咤するように、乱暴に思考に入り込んでくる雨の音からレオニスは無理矢理瞳を閉じる。こんな事では、度々目撃する転寝も当然だな、といない相手を詰ってみても埒が無い。
風邪でも引けば周りが哀れだと揺すり起こせば、気怠そうに琥珀を覗かせるシオンをたやすく想像出来る。何故か苦い味が胸に広がった。


シオンは女性にもてる。
断言はおかしいか、別に自分が女性たちの声を聞いたわけではない。
もてる、らしい。
それは、例えば振られた、と自分の所に愚痴りに来た次の日にはもう違う香水の気配を漂わせていたりだとか、部下たちの口さがない噂話だとか、城内ですれ違いに交わす挨拶に立ち止まれば明らかに意志を持って当てられる熱を帯びた視線だとか。
そういうことにはどちらかというと疎い自分でも判る。
端正に分類される顔。
耳に心地よく響く声。
乱雑ながらも洗練された仕草。
実力に裏打ちされた自信。
巧みな話術。
地位と名誉。
並び立てたらきりがない、嫌味な程に隙もなく女性を惹き付ける要素を振りかざし、昔はそれに眉を顰めもした。
それでも懲りずにシオンは堂々とレオニスの側に来る。そんなことを繰り返している内に、慣れた。言い方が適切では無いが、他に言葉が見つからない。一応、一度に複数の女性と付き合う訳では無いらしいので、目を瞑る。
そんな融通もシオンと共にあって覚えたものだ。

それでも、一人の女性とは長続きしない。最初は疑問だった。しかも必ずあちらから別れ話は切り出されるらしい。切望して手に入れた筈の恋人の座を何故手放してしまうのか、原因がシオンにあると、何となく気付いたのは何時の頃だっただろう。
惜しげもなく与えられる、けれど、何処か心在らずの愛情に、耐えきず去っていった彼女達の方がよほど慰められて然るべきだ。
等しく愛情をかけられる花々と同じでは傷つこう。
そこまで逡巡してレオニスは首を傾げる。
二者一択を迫られれば花を取る。そんな気がした。
尚堪るまい。

シオンは感情を露出させない。誰にも。何処かで必ず線を引く。その態度が問題なのだ、と何度忠告しても、肩を竦めて見せるばかりで一向に直す気は無いらしい。
ならば、恋人など作らなければいいのに懲りもしない。最近は特にサイクルが早い。そうすることで、バランスを取っているかのようだ。


何のバランスを?
ふとレオニスは眉を顰めた。
危ういバランスの上だ。自分も、シオンも。
どういう意味なのか、考えると通り過ぎる風に答えは奪われる。支離滅裂だ。
いっそ、この雨が全て流してくれればいいのに、逆に身の内に溜まっていく、それが感に障る。

もう、寝てしまおう。
…コツン。
机の上の書類も読みかけの本も思考も全部無理矢理放棄してベッドへと足を向けたそのタイミングを見計らったように窓に雨ではない何かが当たる音がした。
…コツン。
気のせいで済ませようとした脳裏にもう一度。
「……?」
窓へと歩み寄ると、暗く澱んだ窓の向こうで、シオンが笑っていた。「よう」そう動いた唇に一瞬気を取られてから、レオニスは部屋に雨が降り込むのも構わずに勢いよく窓を開けた。
「シオン殿?!」
「よ、レオニス」
「何をやっているんですか!」
窓を開けたとたん吹き込む雨に瞳を眇め、ずぶ濡れで笑うシオンにレオニスは怒鳴る。周りが起きるぜ、とシオンが笑った。
いつもの人を食ったような笑顔でも無ければたまに見せる屈託の無い笑顔でもない。見る方が胸の痛くなるその笑い方には覚えがあった。
「入れて貰えるか?」
「早くお入りください。何が…」
慌ててシオンを促すように身体をずらすが、笑ったまま動こうとしない、けれど全然笑っていない瞳がレオニスを捉えていて、言葉を見失った。
「振られちまってね」
「…見れば分かります」
「慰めて貰えるか?」
「……」
いつもの様にまたか、と呆れ顔で招き入れる、それだけの事ができない。
どうしてしまったというのだろう。
「いい奴だったんだ」
「…そうですか」
それだけしか言えなかった。
知っている。名は知らぬが珍しく、惚気るように最近付き合っていたらしい相手の話を幾度か聞かされた。
どこか麻痺してしまった頭で、いいことだ、と祝福していた。しようと、思っていた。
「今回はうまくやって行けると思ったんだがな」
「…そういうこともあります。気を落とさず」
辛い恋にはレオニスにも覚えがある。
雨が強く吹き込んで、レオニスをも濡らしていくが、気にはならなかった。目の前の、本当に珍しく堪えたような笑みを洩らす男に、意識を鷲掴みにされる。
「……違う」
「シオン殿?」
「俺が、振った」

不意打ちのように、背中に手が回された。
不覚にも、素人相手の行動に遅れを取った、その理由に思考を巡らせることすら忘れていた。
不思議と、振り払う気にはならなかった。
どこで間違ったんだろう。
それでもまだ、シオンの足は窓の外だ。

「いい奴だったよ」
シオンの身体は芯までまで雨に冷やされているのに、息だけが熱くレオニスの布越しの肩を濡らしていく。
「嘘なんてとてもつけない」
「…そうか」
何に、とは聞かなかった。聞く必要もなかった。
ああ、とレオニスは思う。
あれほど鬱陶しく思った雨が、しっくりと乾いた細胞の隅々にまで渡ってゆくようだ。
危ういバランスなど一度壊してしまうべきだ。
子供のように癇癪を起こして叩き壊しても、残骸は残る。
それが価値の無いものだと誰が決めたのだろう。
それから何が始まるかなど、誰も知ったことではない。
「あいつを好きだった。だが…」
「もういい」
ふ、と腕が解かれる。穏やかに微笑うレオニスを見て、一瞬目を見開いて、そして、追うようにシオンも微笑った。少し、自嘲を含んでいた。
「返す言葉もないな」
吹き込む雨に濡れた頬に伸ばされた指が震えていた。いつの間にかその指先すらも暖かく感じる程に自分も冷え切っていることに気付いて、可笑しくなった。
「貴方は馬鹿です」
「そうだな、俺は馬鹿だ」
「…どうしようもない」
「ああ、どうしようもないぜ、俺は。それでも、慰めてくれるか?」

レオニスは諦めたように瞳を閉じて、けれどしっかりとシオンの手を取った。
「…私も馬鹿だ。……来い」
「サンキュ」
シオンが嬉しそうに瞳を細めた。


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「……名前、聞きたいか?」
シーツに伏せたままレオニスは眉根を寄せる。身体に残る疼痛故かもしれないし、悪趣味な問いの所為かもしれなかった。
戯れのように言葉を発した本人も、自らの失言に苦笑する。
「冗談だ。悪い」
「程があります」
「そうだな」
殺されたくないしな。
殺されるような相手だったのか。
瞬時に三人程候補が頭に浮かんだが、無理矢理打ち消した。憶測で想像するのは彼女たちに失礼だろう。シオンが、水をたっぷり吸い込んで重くなったシーツに潜り込んだ所為もある。

今度は間違えなかっただろうか。
実はあまり自信がない。


雨足は幾らか弱まったようで、静かに闇へと浸透していた。もういくらもなく、空は白み始めるだろう。雨でその移り変わりは緩やかとは言え。
「シオン殿」
「んー?」
「お帰りください」
騎士団の朝は早い。
男ばかりの宿舎から朝帰りのシオンが目撃される。
こんな不自然なことはない。考えたくもない。
一人例外ともいえる存在が居ないわけではないが、それこそ不名誉で迷惑な話だろう。
「そーゆー冷たいこと言うかね」
まだ雨も降ってんのに、と掛布を引き寄せて更に潜り込むシオンを、もう一度雨の中に叩き出すべきか否か、一瞬本気で悩み、溜息に霧散させる。
身体だって怠い。
「お帰りください」
「ちぇ」
よ、と勢いをつけて上体を起こすシオンの横顔にも、いくらか疲労の影が見えた。
寝てないしな。
それ以外の理由にはあえて目を瞑る。
精神衛生上、よろしくない。

「貴方の所為で目を瞑りっぱなしです」
「バランスが取れていいだろ」
濡れたままのローブを羽織りながら、視線もよこさず返事があった。
恨みがましい声すら軽くやり返されては、もう溜息しか零れない。
「服をお貸しましょうか」
身を起こしかけ、振り返り楽しげに喉を鳴らす笑みに制される。
「いらんよ。どうせまた濡れるし。レオニスの服を着た俺が目撃されるのも楽しいかもしんないけどな」
ああもう。
シオンの前では口を開かないほうが良いんじゃないかとレオニスは本気で思った。
「もう慰めませんよ」
「必要ないからな」
笑み含みの声が返る。シオンは手早く着衣を調え、踵を返した。黒のローブの裾が翻る。
未だ乾かぬ床の上を歩き、窓へと。
シーツはびしょ濡れだわ、床は水溜りだわで、朝を思うと頭が痛い。窓が開け放たれると身体に染み渡った雨音は一層深まる。
「レオニス」
名を呼ぶ声がそれに調和する。今度こそ重い身体を起こしてそちらを見やると、いつの間にかその手には書類の束があった。
「これ、貰ってくぜ」
「……濡らさないでくださいよ」
言わずとも、そういうことにはぬかりないだろう。
だったら、自分も濡れずに来ればいいものを。どこまでが計算なのか。
シオンは背を向けたまま手をひらひらと振ることで応え、その背も直ぐに窓の向こうの闇へと消えていった。
ご丁寧に窓は開いたままだ。もう雨が振り込むようなことは無いが、羽織っただけとなっていた夜着の前を合わせ、ベッドを降りて閉めに行く。床に足を着いたところで膝が砕けそうになって、思わず闇の向こうを睨み付けた。


静かに窓を閉じ、足元を濡らす水溜りに溜息を零す。
どうしたものか。言い訳を考えるが思考は空転するばかりだ。
少しの間、窓の外の雨を眺めてから、比較的濡れていない掛布を手にソファへ横たわった。
既に細くなっていたランプの灯を落とせば、月も無い夜は闇に包まれる。
それでも、後もう少しで朝が来る。
それから考えても遅くはあるまい。
そんなところも感化されているような気がして、レオニスは小さく苦笑を零し、目を閉じた。



End.


2004.11.11 颯城零
別ジャンルで未完だったものを書き直して完結させてみました