91.傘
じりじりと視界を焼く太陽がぽっかりと中天に浮かび、その存在感を強くしている。刺すような陽光が境界を曖昧に町を切り取る。
耳鳴りがするほどの蝉の声。蒼を溶かし込んだような澄んだ天上には雲ひとつなく。
開け放たれた窓からそよぐ風も、零れるざわめく梢の作る影もかき消されるように、室内に響く模造刀の打ち合う音、掛け声、号令、その全てが熱気を加速させていた。
頭に巻いた布の効果もむなしく、顎を伝う汗が飽和し弾けて床に染みを増やす。
熱に支配される空間の中、苛立つような醒めた視線を受けている。
レオニスへと向けられるマイナス感情を含んだ視線は珍しいものではなかったが、それとは一線を画していた。
目を向けなくともそれが誰のものだかわかっていた。夏の青空にも劣らぬ色彩を結い上げ、人を食ったような笑みを浮かべているのだろう。
機嫌の悪さをレオニスに向ける視線だけに乗せ。

シオンは何が楽しいのか、彼のスタイルとは真逆にあるだろう騎士の訓練場へと時折訪れた。
口を出すでも邪魔をするでもなく、ただ壁に凭れて訓練を眺めていく。
最近は特にその頻度を増している。
その契機には心当たりがあったが、付随する要因はさっぱり検討がつかない。
始めから僅かに燻っていたレオニスへと向けられる苛立ちは、訪れる回数に比例して強くしているように感じられた。
邪魔ではないが、気は散る。
そんなシオンを腹の中でどう感じていようと、表立って文句を言う者は居ない。シオンは院生に過ぎなかったが、本人が望むや望まざるや、家名の効力は絶大だ。
上官殺しの汚名さえ、囁かれるは水面下―――


「レオニス、手合わせしようや」
解散の号令が飛んで半刻もすれば、訓練場は自主練習を行う数名を除いて閑散としている。
壁に立て掛けられた模擬刀を一本手に取り、まだ少年の面影残すシオンは、けれど何の気負いも無くレオニスへと笑いかける。もう飴色の瞳の奥にも苛立ちの色は探せない。巧妙さを増したのか、それとも。
「駄目です」
「たまには違う剣を受け止めるのも訓練の内だろ? 戦場は正確な太刀筋ばかりが降るわけじゃない」
「正論ですが、貴方である必要はない」
「俺じゃない必要もないよな」
既にクライン1、2を争う剣技を持つと名高いレオニスに挑むだけはある、剣を合わせた事はなくともその自信に裏打ちされる強さは見て取れた。
権力と金で騎士の位を贖った者よりよほど腕は立つだろう。哀しいかな、クラインもまた、身分の介入から完全に間逃れることはできない。
剣で遅れを取るとは少しも思わないが、実戦で魔法の介入があれば行方は予想がつかない。
「怪我をします。私の失脚をお望みですか」
「あんたが手加減する余裕も無いわけないだろ。覚悟もある。俺は勘当されてんだぜ、関係ない」
「心がけはご立派ですが周りが許さないのですよ」
「俺が口を噤めばいいことだ」
何をそう食い下がるのか、シオンに引く様子は無かった。
訓練場に残る数名が、2人を見て何か言葉を交わしていた。総じて好意的な視線ではない。
しかしシオンもレオニスも分かりやすい悪意や好奇の目を気にする性格ではなく、気が逸れたのはただの一瞬。溜息と共に再びレオニスが口を開こうとした時、
「反逆者と上官殺しか……類友ってやつ?」
けたたましい蝉の鳴き声を縫って蔑む声音が耳に届いた。聞こえよがしな言葉が、そう囁かれながら立場に据え置く上への蔑みに繋がることすら分からぬ愚かな輩。
すぐに周りが咎めて、逃げるよう共々訓練場を出て行くのが横目で見て取れた。
シオンに聞こえなかったはずもなかろうに、目前の彼は気にした様子もなく変わらない笑みを浮かべ、ちらりと出て行く騎士たちの背中へ視線を向ける。いっそ白々しさすら感じた。
いちいち傷つくような繊細さはレオニスも持ち合わせてはいなかったが、笑う気にはならない。
「アレにも罰なんか下らないぜ?」
「……とにかく駄目です」
「なんで」
「怪我をします」
「だから……」
「気が立っていますから」
繰り返そうとしたシオンを遮って別の理由を告げれば、シオンはちぇ、と残念そうに呟いて剣を壁へと乱雑な仕草で戻す。
しつこいが引き際を知らぬ訳ではない。
そうしてもう一度シオンは騎士の出て行った扉を見た。
「……気にしているのか?」
「シオン様のことではありません」
「ふーん?」
「貴方こそいいのですか」
「だって本当のことだし」
もう訓練場には2人の影しかない。窓から差し込む鋭い光が、その影を長くしていた。
シオンが偽悪的に振舞っているのか、本気でそう思っているのかはレオニスには判別がつかない。
「戦場です」
奇麗事で済む場所ではない。ましてや、報告を聞く限りではシオンに否があるとも思えなかった。シオンはおかしそうに喉を鳴らす。
「そんなことが言えるのは当事者じゃないからさ」
「当事者だから、客観的とはいえません」
「主観が存在する以上無視はできんだろうよ」
「……そうですね」
「自分の視点から物事を判断する限り、全部主観だ。自分の都合が混ざるから。だから間違うというなら……俺は間違ったかもしれないだろう」
仮定を取りながら、その響きは断定に似ている。
さあ、とそぐわない涼やかな音がして気が逸れた。窓の外へ視線を投げれば、晴天だというのに雨が降り始めている。強い日差しに焼かれる天の雫は、乾いた土の匂いと混じって濃い水の香りを放つ。珍しい。
珍しいといえば、シオンの言葉だ。
熱が感情すら飽和させているのか、見たことの無い姿を見せている。実年齢を思えばこちらの方がよほど相応かもしれなかった。
いつの間にか笑みの形を失った同情など求めていない瞳が間近にあって、近づいた目線の高さが時の流れを思わせた。自分の時間は留まっているから、普段忘れがちだ。
もとより、慰めたつもりも慰めるつもりも無いが、自分はよほど適切な言葉を捜すのが下手らしい。
だから、気が立っているのだろうか。
シオンの視線に答える術を持たない。

「あんたは訓練の過剰摂取」
ふと茶化す言葉に添えて、一瞬だけシオンは笑った。突然向けられた矛先の脈絡の無さに、レオニスは眉を顰める。
シオンは袖で額の汗を拭って、視線を逸らした。
「……は?」
「休憩すら返上で剣を握るのは、より王家に役立つためか?力無き民のためか?……死なないためか?」
「どれも、全て」
「優先順位は」
「それは、」
レオニスの答えが自分の中でも形になる前に、シオンは手を伸ばした。
「言うな」
常に剣を握るレオニスの無骨な手とは正反対の、長く綺麗な指が視界を覆う。
「シオ……」
「何も。見るな」
指の隙間から零れる、強い夏の光。それが視界の全てで、振り払うという選択肢は不思議と浮かばなかった。
深まる水の匂い。悪い、と囁く吐息が唇に触れた。
光の遮断は瞼を閉じたせいか、影が落ちたせいか。

熱気に当てられている、とレオニスは思う。
人を評する言葉として好きではないが、らしくない。
傷を容易く見せていることも、その人選も。
確かに、過剰かもしれない。一番らしくないのはこの状況を厭わない自分だ。

「あんたたち、順番を間違ってるぜ」
離れた唇が紡いだ言葉は確かにレオニスへ届いた。雨音と共に。
深く。
たち、という単語が誰と括られているのかを問おうとは思わなかった。
「……それでも、残るでしょう」
貴方が居る。無意味ではなかったはず。価値があったはず。
瞼を閉じたままでも、すぐに息を飲む気配が伝わる。
「繋いでくれたからこそ、やるべきことがあるはずです」
「そう、だな」
それはすぐに見失いかける自分への戒めを含め。
少しは、彼に答えることができただろうか。

「傘をお貸しします」
「……もう、借りた」


だから、もう少し。


End.

2005.3.13 颯城零
「70.藍」の過去の延長っぽいが、これだけでも読める、筈。
エスタスの事ってシオンがいくつくらいなんだろう。一応17,8くらいのつもりで。
あんたたち其処をどこだと思っているんだ(笑)