……多少問題はあったが、賭けに負けたのだから仕方がない。とはいえ……

 クライン国第二王女ディアーナ=エル=サークリッド付き女騎士シルフィス=カストリーズはあることで深く悩んでいた。
 その悩みは常に頭の片隅にあって離れず、ふと気づくとそのことばかり考えている。同僚の呼びかけに気がつかないこともしばしば。彼女の上司兼保護者であるレオニス=クレベールまでが、その何だか心ここにあらずな様子を察し、何かあったのかと尋ねてくるほどで、彼女の自身もまずいと思ってはいるものの、どうにかなるのなら疾うにそうしているが、どうにもならないから手に負えない。
 始まりはほんの些細なことだった。
 11月にしては暖かな日、ディアーナに、その兄である皇太子セイリオス=アル=サークリッド、筆頭魔導士シオン=カイナスを加えたメンバーで、ささやかな茶会の時間がもたれた。その際、月末に行われる御前試合のことが話題になった。訓練を積んだ騎士団の選りすぐりのメンバーが対戦形式で己の技を競う、日頃の訓練の成果を披露する場だ。まだ騎士となってから日の浅いシルフィスには参加資格はないが、騎士を志した者としては一度は参加してみたい場である。レオニスはその大会の常連で、ここ数年の優勝を独占していた。そのレオニスの勝敗について、シオンが賭けを持ちかけてきたのだ。
 賭けたのは、相手の言うことを何でも一つだけ聞くということ。
 ディアーナは、シオンが単純に賭けを持ちかけるはずがないことを察し、いかにも手玉に取られそうなシルフィスを気遣いシオンに釘を刺したのだが、シルフィスは、騎士団一の腕を誇るレオニスが負けるわけない、とレオニスの優勝へ素直に賭けを受けてしまった。しかし、その三日後、レオニスは急な長期の地方遠征が決まり、御前試合には出場できなくなってしまったのだ。そのことを知ったシルフィスは、シオンに嵌められたことを悟った。
 レオニス不在で行われた試合の翌日、シオンは満面の笑みを浮かべ、詰所にいたシルフィスを訪ねてきた。恨めしげな顔で迎えたシルフィスに、シオンが告げたのは「降誕祭のパーティのパートナーになる、もちろんドレスで」というものだった。そして、半ば引きずられるようにして仕立て屋へと連れていかれた。
 シオンの注文自体は想像していたよりずっと真っ当で、シルフィスは胸をなでおろした。シルフィスは、以前シオンからその想いを伝えられたことがあり、その時は騎士になる夢を追いかけたいので待ってくれと答えたが、彼自身には決してマイナスの感情は抱いていない。しかし、ドレス着用となると話は少々違う。アンヘル族の特徴で長らく自分の性を定めなかったシルフィスは、女性に分化したばかりで、しかも騎士。女性らしさとはかなり縁遠い世界で大半の時間を過ごしている。身体はようやく女性らしい丸みを帯びてきたものの、どちらかというと痩せた身体に、優雅さの欠片も見出せない(と自分だけは思っている)立ち居振る舞いには少なからず劣等感を抱いていた。その自分がドレスを着て、華やかな女性遍歴を誇るシオンのパートナーになる。
 皆は一体何と言うだろう。想像は膨らみ、あまり聞きたくもない言葉が幾つも頭を駆け巡る。半ばイカサマ気味な賭けだったとはいえ賭けに負けたのは事実だから、生真面目なシルフィスに突っぱねることなどできるはずもない。
 それがシルフィスの悩みの種だった。
 しかし、それがどんなに望まないことであろうとも、時は確実に過ぎ、その日は刻一刻と近づいて来た。
 そして、当日。
 重い足取りでシオンの私邸を訪れたシルフィスを、侍女たちが飾り立てている間、ひっきりなしにその姿形を誉めそやす言葉を並べ立てても、どこか上の空だった。

 全ての仕度が終わり、侍女たちが下がって間もなく、シオンが顔を見せた。
 手際の良い侍女たちによって、すっかり仕度の調ったシルフィスは椅子に独り掛けていた。
 黒のマントと濃紫のドレスはシオンの見立てだ。いつもは高い位置で一つに束ねられた髪は、ドレスと同色のリボンと共に美しく結われ、普段はしない化粧も薄く施されていて、控えめな紅がその白磁器のような肌を引き立てる。
「よ、別嬪さん」
「……」
 称賛の言葉にも、シルフィスは微かに肩を震わせただけでじっと俯いていた。随分と頑なな態度に、シオンは困ったような笑みを浮かべた。綺麗に着飾らせてやれば機嫌も直るかと思ったが、やはり一筋縄ではいかないらしい。女騎士は、素直な気性の持ち主ではあるが、意外と頑固なところもある。
 シオンは、ゆっくりと歩を進め、シルフィスまであと数歩のところで歩を止めた。
「そんなに床ばっかり見つめてると、穴開くぞ」
「まさか」
 いつものシルフィスらしからぬ素っ気ない台詞に、シオンは苦笑しつつ再び歩を進め、シルフィスの傍らで腰を軽くかがめて問いかけた。
「そんなに嫌か?」
「……着慣れている方のようにはいきませんから……。歩き方も仕草も全然女らしくないし」
 シオンは、その台詞を遮るかのように、シルフィスの肩に一房垂らされた金の髪を手に取り、とびきり大切に慈しんだ花を見る時のような穏やかな表情を浮かべるとそっと口付けた。しかし、俯いたままのシルフィスはそれに気づく由も無い。
「――よく似合ってる」
 静かに呟かれたシオンの言葉に、シルフィスの顔が更に赤らむ。
「顔を上げてくれないか」
 シルフィスは微動だにしない。そんなシルフィスを見て、シオンがひとつため息をついた。
「……嫌な思いさせちまったか」
 やや寂しげな口調に、シルフィスは慌てて顔を上げ、力強く首を横に振る。
「……そんなことはないんです。あの、シオン様の申し出自体はとても嬉しくて。でも」
「でも?」
「こんなドレスなんて、自分じゃないみたいだし」
「だし?」
「あんまり身体に馴染んでないし」
「ないし?」
「何だか男の子が女装してるみたいじゃないですか」
「お前なあ、本気で言ってるのか?人前でそんなこと言ってみろ、間違いなくその場にいる女、残らず敵に回すぜ」
「だって」
「あー、もうやめろ。どこから見ても立派な女だ。それに」
 シオンはシルフィスの顎に手を添えると、上を向かせた。シオンの琥珀の瞳は優しくシルフィスを見つめる。シルフィスは顔を逸らそうとしたが、顎に添えられた手はそれを許さなかった。
「そういうとこ全部ひっくるめて愛おしいって、言ってみたら納得するか?」
 普通の女性なら、それだけでシオンの手の内に堕ちてしまいそうな甘言にもシルフィスは動じず、硬い口調で言った。
「シオン様の言葉では、信憑性は限りなくゼロに近いです」
「それが、未分化でもいいって言った俺に言う言葉か。信じる信じないは勝手だが、俺は結構本気だぜ?」
 シルフィスはシオンをじっと見返した。シオンは先ほど見せた穏やかな表情でシルフィスを見ている。いつものシオンとは違う、優し過ぎて何だか切なくなってしまうような表情。彼は本気なのだと信じてしまいそうに。
「……本当ですか?」
「シオン様に二言はない」
 次の瞬間、シオンはいつものシオンに戻っていた。まさに猫の目のような素早さ。いつも通りの自信たっぷりなシオンの言葉と変わり身の早さに、シルフィスは思わず吹き出した。シオンは憮然として言った。
「なんでそこで笑うかな……。まあ、いい。さて、お嬢様、この後はいかがいたしましょう。このまま、部屋に閉じこもっていたいか、それとも出かけるか?俺はこのまま二人っきりってのもいいと思ってるが」
 シオンがにやりと笑う。いかにも何か企んだような笑みを見たシルフィスは即答した。
「出かけます!」
「お、いい返事。つまんねーの。ま、かしこまりました」
 シオンは大仰に一礼すると、シルフィスの手をとり、扉へと誘った。シオンの手のひんやりとした感触に、シルフィスの胸が嫌がおうにも高鳴る。
 しかし、シルフィスは一二歩踏み出した瞬間、慣れないドレスの裾を踏みつけた。バランスを崩し、前に倒れこむ。シルフィスが体勢を立て直すよりも前に、シオンが素早く腰を支える。怪我をすることもなく、事なきを得たが、しっかりと腰に回されたシオンの腕にすっぽりと抱きかかえられる形になった体勢もさることながら、お約束のように躓いてしまったことに、シルフィスは泣きそうに顔を歪めた。
「だから言ったのに……!」
 シオンは慰めるようによしよし、とシルフィスの頭を撫でた。
 ――またさっきの顔
「心配するな、いつでも支えてやる。ただし」
 シオンは一端そこで言葉を切った。
「俺がいるとこ以外でドレスは着るなよ」
 シルフィスはシオンをしばらく見つめていたが、小さくこくりと頷くと、シオンに腕を預けたまま再び慎重に歩を踏み出した。
 シルフィスは思った。
 ――あの顔が見られるなら、ドレスもいいかな。



<おまけ>

「あ、脱がせるのも俺だけだからな」
「……シオン様、真顔で冗談はやめてください」
「冗談じゃねーもん」
「……(真っ赤)」



2005.01
フラスコ様よりシオシル創作を頂きました!
クリスマス限定フリー配布絵を元に書いて下さったそうです
自覚のない女の敵なシルフィスが可愛い〜
ありがとうございました!