艶藍の火

by 花 


シルフィスはまた、湖へ来てしまっていた。
一人で静かに何かを考える感覚が好きだ。だが、ただシオンが側に居るだけで、何も考えられないほど慌ててしまう。こんなに簡単に影響されている自分に腹が立ってしまうが、シルフィスにはどうしようもなかった。
だからシルフィスは、殻が脆い蝸牛になるほか、どうしたらいいのかわからなかった。毎日、喜色満面のディアーナからシオンが優しく気がきいてユーモアがあって如才なくて聡明で賢くて何でもできて……、そんな話を聞く。
 そのたびにまるで自分の心臓が生きながら古の伝説の中に出てくるブレンダーで絞られて、粉々になってしまったかのようになる。それでも、なんとか優しい微笑みを浮かべて、ディアーナがシオンのあれこれについて報告するのを聞くしかない。
いやだいやだ。何も知りたくはなかったのに! シオンに近づく度にもっと好きになってしまう。シオンはそういう拒み難い魅力を持っている人間だ。だから、シルフィスは遠く離れることを、逃避することを選んだ。例え後で、人に『亀のように頭を隠すことしか出来ない』と嘲られても構わない。自分が傷付いても、他人を傷付けるよりはましだ。
苦痛も悲哀も自分だけでたくさんだ。
だが、シルフィスが湖の側に着いた時、キールは既に横になって顔を本で覆いながら熟睡していた。
胸が均等に起伏していることは、彼が安らかに寝ている証拠だ。その姿に、シルフィスは、何故かどきっとしてしまった。
ちょっとの間だけ赤面してしまって、シルフィスは躊躇いながら、キールに近づいた。起こした方がいいのかなと一瞬考えてみたが、やはり止めた。だが、風邪を引かせるのも……
シルフィスが考えを巡らせている最中、キールは本をどけた。翠緑色の瞳がゆっくり開く様子はだるそうに見えてセクシーにも見えた。両眼を細くして、彼はシルフィスの存在にはすこしも驚いていないように見えた。
「お前か」
淡々とキールは聞いた。無駄のない動作で素早く上半身を起こして、身に付いた草屑を払った。
「えっと……済みません、起こしてしまいました……」
 シルフィスは顔を真っ赤にして、消え入る声で言った。
キールは答えない。眼鏡を少し上へおした。警戒心の強い彼は寝ている時でさえ、眼鏡を外さなかった。
「お邪魔でしょうか?」
 返事がないのを見て、シルフィスはちょっと緊張しながらこう聞いた。
「ここは、別に俺のものではない。お前が来たければ、それはお前の自由だ。」
キールはページをめくった。側にシルフィスがいるのに意に介してないようで、本の続きを読んでいた。
キールが前回のようにシルフィスを見るなりに帰ってしまうことはなく、いつものように自分のしたいことをしているというのは、ここにいても大丈夫なのだろう。
シルフィスはほっとした。キールが嫌がっていなくてよかった。さもなければ、どこに行ったらいいのか判らなかった。
熱気活発な街を歩き回るのは好きではない。魔法が全然わからない彼だが、魔法研究院にいる芽衣には会いに行ける。しかし、寂しいのが嫌いな彼女はいつもディアーナと一緒に遊んでいる。が、シルフィスはディアーナに会いたくはなかった。
王宮や騎士団もシオンの出没範囲だったし。本当に、シルフィスはここ以外どこにも行ける所がなかった。
シオンに会ってもディアーナに会っても苦痛を感じずにいられない。
もしかしたら、シルフィスが本当に逃避しているのは、彼自身かもしれない。
キールはシルフィスを一瞥して、ちょっと考え込んだ。それから、淡々と口を開いた。
「言いたいことがあるなら、さっさと言ったらどうだ? そんな顔はするな。」
シルフィスはおかしそうにキールを眺めた。彼から主動的に話し掛けてくるとは、本当に珍しい。
「あの?」
 呆気に取られた彼は暫く反応出来なかった。
「前、お前に読めと言ったあの絵本のことを覚えているか?昔々「王様の耳はロバの耳」という物語があってな」
 キールは、あの人が殴りたくなるような皮肉めいた笑みを浮かべた。
「むやみに油が一層出来てしまうのが嫌なら、話したいことはさっさと話せ!」
(花注:「王様の耳はロバの耳」を知らない方は、いらっしゃらないですよね?)
シルフィスは一瞬ぽかんとしたが、すぐにキールの話の意味を理解した。そして、くすくすと笑ってしまった。
キールは、本当に風変わりな人だ。他人を心配していても遠回りに、直接には言わなかったりして、可愛かった。
「私……」
シルフィスが話す前に、突然、森の中から奇妙な生物が何匹か現れた。それも、ゆっくりとキールとシルフィスに近づいてきて、彼らを包囲した。
「これは……」
 シルフィスの手元に武器がなかった。素手で戦うしかない。だが、勝算があるかどうか怪しいものだ。
しかし、騎士は民を守ることが務め。何としても、キールだけは無事に逃さなければ。
「召喚獣だ」
キールは眉を顰めた。このような生物はここに出てくるはずがない。まさか、なにかの陰謀が計画されている最中なのか? じゃなければ、召喚獣が出て来るわけがない!
「召喚獣?」
シルフィスはそのような生物があると聞いたのはこれが始めてだ。
「誰かのために戦うことが専門の、怖い生物だ
(ごめんなさい、花は遊び過ぎました)。」
キールの簡単な説明が終るやいなや、召喚獣達は彼らを攻めはじめ、二人とも呆気に取られた。
「シルフィス! 俺の側に来るんだ!」
キールは叫んだ。武器のないシルフィスに大した攻撃力がないのを知っていたから。
「ああ?」
シルフィスはまだ思考に沈んでいる最中に、一匹の召喚獣が躍って彼に襲いかかってきた。反射的に攻撃を避けたシルフィスだが、獣の鋭い爪が腕を掠って傷付いた。
キールはシルフィスを自分の側に引っ張って、もう一匹の召喚獣がシルフィスへ跳んで来た時、シルフィスを地面に押して被せながら、自分の火系魔法で反撃した。
まったくもって素晴らしい対応能力だ。シルフィスは目を見張った。シルフィスは、自分が騎士になれる自信がなくなったように感じた。一人も守れないなんて、自分にはなにが出来るのだろう?
召喚獣は敵が簡単にやられる相手ではないのをみて、段々と散って去った。瞬く間に、湖は元の静さに戻った。
しかし、シルフィスの心の中は、どうしても平静にはなれなかった。
「大丈夫か?」
キールは立ち上がって、手を伸ばしてシルフィスを引き起こした。
「大丈夫です。」
シルフィスは我に戻って、キールに怪我はないかと聞こうとした時、キールが力無く自分の胸の中に倒れてきたのがわかった。
「キール? キール?」
シルフィスは緊張してキールの体を受け止めたが、手にしたのは湿ったねっとりした液体だった。
シルフィスは掌を開けてみて、とめどなく流れて来る血をみとめた……



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