蒼い夜の鼓動が、聴こえる。
灯りをつける前の部屋の中、夜が静かに謳う。
瞳を閉じて、耳を澄ませば、聞こえてくる。さざめくようなその鼓動が。
「シルフィス」
「!?」
ゆったりとした気分を、一気に打ち破る声。
それは確かに人の声音だった。
「誰だ?」
思わず身構えてしまう。
だってそうだろう。他に誰もいない筈の自室から人の声なんてしてはいけないのだ。部屋の鍵とて今閉めたばかりだったのに。
「俺の声を忘れた?」
「し、シオン様?」
声の主を確認した途端、シルフィスは納得してしまった。この相手ならば、どんな非常識なことだって容易にやってのけるだろうから。
「ちっちっ。いい加減、その『様』付けはやめろって」
「ですが、シオン様は仮にも筆頭魔導士でいらっしゃいますし」
「……嫌味か、お前」
「嫌味に聞えました? それは失礼。けれど私のような騎士見習いが呼び捨てに出来るような立場ではないでしょう?」
「俺がいいって言ってんだから気にすんな」
いつものように繰り返される会話。このままでは話が進まないのは判っている。仕方なくシルフィスはそれに従って問い掛けた。
「では、シオン。一体どちらにいらっしゃるんですか?」
シオンの声は、どこか不思議な響きをもっていた。
「俺の部屋だ」
「……魔法ですか?」
「一応な」
「……何か急用でも?」
「いや。何もない」
「…………」
シルフィスは呆れて沈黙し、ひとまず部屋の灯りをつけた。やはりそこにシオンの姿はない。
「まだ起きてるかなーと思って」
「起きてますよ」
「行ってもいいかな」
「……シオン。私達は、明日出かける約束をしていましたよね?」
「ああ。勿論、覚えてる」
「……何でこんな時間から……」
不思議そうなシルフィスに笑みを含んだ声でシオンは飄々と答えた。
「夜だからさ」
「答えになってませんよ」
「じゃ、せめて湖まで出て来ないか? 待ってるな」
シルフィスの反応すら聞かないで、ふっと声は途絶えた。
「シオン?」
もう返事はない。
シオンはずるい。
こんな時は心底思う。『待ってる』なんて聞いてしまえば、行かずにはいられない。シルフィスが決してすっぽかしたりなんてできないと知っていて、やっていることなのだ。
「着替える前でよかったのかな」
あまり意味のないことを呟いて、シルフィスは苦笑した。
勝手なシオンの行動に慣れてしまってきていることを、けれどどうしても不快には思えない。きっともうとっくにシルフィスは、認めてしまっているのだ。そんなシオンを。
5分後、シルフィスは、あっさりと騎士団宿舎を抜け出していた。
歩きながらふと空を仰げば、欠けることのない月が辺りを照らしていた。
月は確かに綺麗だった。でもこんな時間に湖は、『せめて』という距離ではない。
「やっぱり何かあったのかな」
首を傾げながらシルフィスは、しばしの夜の散歩の末、目的地に辿り着いた。
満月の光は惜しげもなく湖へと降り注がれ、揺れる湖面に静かに反射していた。それも確かに美しい光景だった。だが、何よりも湖周囲の木に咲く花の見事さにシルフィスは圧倒された。
「うわ、凄いな」
「シルフィス、」
花に見とれるシルフィスのもとに、先刻と同じように少しくぐもって響いてきた声。
「綺麗だろ?」
二度目はもう驚かなかった。
「ええ、とても綺麗です」
花を見つめたままでいるシルフィスにも、月光は降り注がれる。それはいっそうシルフィスの美貌を引き立て、精霊のようにさえ思わせた。
ふいにシルフィスは背後に気配を感じた。
それと同時に、ふわりと抱き締められていた。
「シオン?」
「花の精霊みたいだ」
耳に直接響いてくる声。何故か、ほっとする。
「……夜の花見がこんなに綺麗だとは思わなかったです」
「見せたかったんだ。ここを」
珍しいほどに嬉しそうで穏やかな声だった。
シオンが強引に誘ってきた理由を、すんなりと納得できてシルフィスは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「もうすぐ、一年になるんだな。お前さんがここに来て」
「そうですね」
「この花を見ると、思い出すよ」
ゆっくりと腕を解いて、シオンは大きく伸びをした。
そのまま何歩か水へと近付く。
その長い髪に月光が纏わり、幻想的な蒼がきらめく。
シルフィスは、つとその髪に触れ、口づけた。
「シルフィス?」
「月夜の魔法にかかってしまったみたいですね」
くすりと笑うシルフィスは、幻のように綺麗だった。シオンは静かに笑って、シルフィスの肩を抱いた。
「そうだな」
二人はゆっくりと水辺を歩きだした。
夜はまだ長いのだから……。
Ende
2001.3.27
す、すみません。オチなしです(^^;) 本に載せた状態と殆ど変わってないです。もうちょっと手を入れるつもりだったんですが……。どっちにしろ雰囲気で流す話なんで、直しようもなく(^^;)。オチなしのままでごめんなさい(^^;)
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