眩暈・2 ◆戻
「……だるいな」話相手がいなくなって、身の辛さに気がまわったらしい。急に身体が重くなったようだった。シオンは気だるさに任せて、深くその身をソファーに沈ませた。 そのまま眠れてしまいそうに穏やかな空気が、心地よく感じられる。それは恐らくは、シルフィスという爽やかな風のおかげだった。 何かに引き込まれるようにまどろみかけた時、シルフィスの声がシオンを呼び止めた。 「お待たせしました!」 シルフィスが、足音も立てずにそれでも素早く駆け込んでくる。 シルフィスのそのひたむきさを嬉しく思いながら、シオンは思い出したように告げた。 「そこさ、鍵かけといてくれ。こんな格好を他に見られたらまたうるさいから」 「あ、そうですね」 望む望まないに関わらず、シオンは目立つ存在だ。小さな怪我であっても大騒ぎされてしまいかねない。既に慣れたこととはいえ、面倒だと思うこともある。近づいてくる人間の全てがそうだと言い切るわけではないが、シオンの地位や家柄、自分にとってはどうでもいいそういったもの目当ての人間は数多い。 でも、シルフィスには関係ない。 シオンがどんな地位にいるとか、どんな力を持っているとか、その家柄であるとか、恐らくそんなことは全く眼中にないだろう。いわゆる権力に靡くようなタイプから尤も縁遠いひとだから。 それが、何よりシオンには気楽だった。そんなことを欠片も意識しないで付き合える相手は、今のシオンには少ない。 媚びた笑顔や、へりくだった態度は嫌いだった。 「あ、シルフィス、この後の予定は? 大丈夫なのか、のんびりしてて」 「……ほんとに珍しいですね。いつもさぼれと唆す貴方が」 きょとんとした顔がかわいい、なんて云ったら怒るだろうから口にはしないけど。シルフィスが居てくれるなら、怪我するのも悪くないなんてことを、シオンは結構本気で考えてしまっていた。 「俺がいくら唆したって靡いてくれないだろ、お前は。いやさ、これがデートかなんかならいいけどさ、こんなつまんない用事でお前の時間を潰したくないからさ」 「……デートのお誘いなら帰ってます」 「がくっ。つれないなぁ〜」 「……貴方とのことを、批判的に噂されたく無いんです、私は」 シオンの血に汚れた腕を丁寧に拭きながら、シルフィスは軽く笑って続けた。 「そうじゃなくても私は結構大変なんですよ。シオン様はおもてになるから」 「……なんか迷惑かけてるみたいだな」 「それは勿論」 にっこりと笑う、その笑顔が怖い。 「……でも今はもうナンパなんてしてないぞ!」 「判ってますよ。それでも云われるんですよ。あのシオン様が本気なわけはない、って」 「……俺の気持ちが俺以外に判ってたまるか!」 「うわ、動かないで下さい!」 傷口から慌てて手を放したシルフィスに睨まれて、シオンは適当でいい加減で刹那的な過去の悪行を後悔しつつ、がっくりとうなだれた。 今まで、こんなにも希有な存在が、そばにいてくれる日がくるなんて思ってもみなかったのだ。だから恋愛なんて、薄っぺらでもあっさりした簡単な関係ならいいやと決めつけていたのに。 こんな存在は、とても手放せない。 「でもさ、シルフィス。俺から見たらお前さんのがよっぽどファンが多いんだぞ」 「……そうなんですか?」 「以前だって絡まれてたじゃないか」 「でも最近は寄ってこなくなりましたよ。シオン様が怖かったのかな」 「……高嶺の花ってとこじゃないの?」 「何云ってるんですか、からかわないで下さいよ、もう」 私なんてまだ女性ですらないのに、と呟きながらシルフィスは、慣れた手つきでてきぱきとシオンの肩に包帯を巻いていく。 「からかってないんだけどなぁ」 まだぼやくシオンに困ったような表情を向けたものの、シルフィスはそれ以上を口にすることはなかった。 「本当に困ったら言うんだぞ。全部背負わないで」 「大丈夫です。私は、貴方に相応しいような騎士になると決めたんですから」 にこりと笑ってシルフィスは続けた。 「だいたい一人で背負ってしまうのは、シオン様の方じゃないですか。私が騎士になったら、貴方一人にこんな怪我なんてさせたりしない!」 その少し悔しさの滲んだ語気は珍しいほどに強いもので、シオンは驚いてシルフィスを見返した。 「シルフィス?」 「騎士が五人もいながら腑甲斐無い」 「いや、でもな、カッコ悪いからあんまり云いたくなかったんだけど、元はといえば俺のミスのせいで連携崩しちまったから手っ取り早くカタつけただけの話であって、奴等が手抜きしてたわけじゃないんだぞ〜」 「急の事態なんていくらだってあるじゃないですか。尤も側にさえいられなかった私には何も云う資格なんてないんですけど」 「だーかーらー、大丈夫だって! 昔はもっと無茶やらかしたから、珍しいことじゃないんだよ。あんまり気にしないでくれよ、な?」 「そうじゃないんです。あ、怪我のことも勿論そうなんですが、私が云いたいのは、シオン様は普段はいい加減なのに、肝心な時になると一人でなにもかも抱えこみすぎだってことなんです。そんなに他の人間は頼りないですか? それともそれが、……貴方の贖罪なのですか?」 怒ったような困ったような泣きそうにさえ見えた翡翠がためらうように揺れながら、最後の一言を吐いた。 シオンはどきりとして息を飲んだ。 「……そんな殊勝なタマに見える?」 「冗談や軽い気持ちで聞いてるわけじゃないです。でも云いたくないならいいです」 諦めたように視線を伏せたシルフィスに、シオンは大仰に溜息をついてみせた。 「違うって。俺はもともとこうなんだ。仕方ないじゃないか。一人で好き勝手してきたんだからさ」 「……私が騎士になったら、貴方の近くに立つことを許してくれますか?」 綺麗に巻き終えた包帯を確かめてシオンの腕から手を放し、シルフィスはまっすぐに瞳を見つめてきた。凛としたその姿がどうしようもなく愛しかった。シオンのために怒り、哀しみ、護ろうとさえしてくれる。その気高い心を、決して自分が穢してしまわないように、とそれを願っているのだけれど。 「……ホントは戦いの場に出したりしたくないんだ。でも近くに居てくれるならその方がいいかな」 汚い仕事はなるべく見せたくないけれど、シルフィスが正式に騎士になってしまったら『来るな』と云ったところで無駄だろう。 「お前さん、頑固だしなぁ」 「……すみません」 筋の通らないことが嫌いで、どこまでもまっすぐで。正しいと思ったことはきちんと主張するし、簡単に意志を曲げたりはしない。それは、シルフィスの一番の美点だ。シオンはふっと笑った。 「それがシルフィスのいいところだろーが。判った判った、俺の背中はお前に預ける」 「ありがとうございます!」 「なんか色気ないなぁ。なんだってこの俺が好きな相手に守ってもらう約束をしなきゃならないんだ。まぁったく、シルフィスには適わないよ」 「ご不満ですか? 別に私だけの話じゃなくてですね、隊長とか他の誰でもいいんですけど、貴方が信頼できる人でさえあれば」 「シルフィスがいい。お前がいてくれたらいい。だいたい最近隊長さんの風当たりは強いしなぁ」 「隊長がですか?」 ニヤっと笑って、シオンはシルフィスの腕を強く引いた。掠め取るように口づける。 「俺がお前にこーゆーコトするのが気に入らないんじゃないか?」 「シオン様!」 突然のキスに驚いたように身を起こしかけたシルフィスを、シオンの腕が引き止めた。 それは、力強さには程遠い柔らかすぎる束縛だった。それでもシルフィスは、優しい束縛から逃れなかった。否、逃れられなかった。 「シルフィスは、優しいな」 全て見越していた男が、白々しく告げて笑う。 困った顔で、シルフィスは傷ついたシオンの左肩を見つめた。シオンは、左腕を伸ばしてきた。だから、振りほどけなかったのだ。傷が痛むのを怖れて。 「包帯、ありがとな」 囁かれた声音は甘く、シルフィスは再び降りてきた口づけを避けられなかった。髪を梳く指先も、戯れるように触れてくる唇も酷く優しくて心地好かった。 「シオン様は、ずるい」 「生きてきた年数が違うだろ。それだけずるくもなるさ。お前はそれでいいんだよ、そのままでいてくれ」 云いたいことだけ呟いて、シオンは幸せそうにそのまま瞳を閉ざした。傷ついた左腕で柔らかくシルフィスを包み込んだまま。 「……シオンさま?」 「…………」 とうに限界だったのだろう。シオンは気を失うかのようにすうっと眠ってしまった。 ただその表情が見たことが無いほどに穏やかだったので、シルフィスはその腕から抜け出すことを諦めた。 そうして穏やかな鼓動を聴きながら、いつしかシルフィスもまた浅い眠りについていた。 シルフィスが目覚めると、目の前で優しい飴色の瞳が柔らかく笑っていた。 「起きた?」 「わ、すみません……」 「謝るなって。俺が抱えこんでたんでしょうが」 「そうですけど、傷は痛みませんか?」 「大丈夫。なんだか熟睡できたらしくて気分もいいみたいだ」 「はぁ、それはよかったですね」 顔色もだいぶよくなってきたシオンは、機嫌もいいようでいつになく素直な笑顔が浮かんでいる。 「目覚めた時は驚いたよ、お前はいつのまにかこんなにも近くに居たんだな。俺はさ、こう見えて他人が近くにいると熟睡できない性質なんだ。戦場なんかじゃ便利だったけれど。でも今は、全然気付かなかった。気付かないくらい自然に、お前って存在が側にいた。それがなんだか嬉しかった」 「シオン様……」 「なぁ、そのうちお休みとってどこか旅に行こう。お前となら一緒に行けるからさ」 軽くウィンクして見せたシオンに呆れながらも、シルフィスは静かに頷いた。 「シオン様、私そろそろ帰らないと」 暗くなってきた窓へ視線を移してシルフィスは慌てて立ち上がろうとした。 「勿体ないなぁ、もうちょっとゆっくりしてけって」 「……何が勿体ないんですか?」 「いやさ、今せっかく鍵もかかってるのにただ寝てたなんて、なんて勿体なかったんだとふと気付いて」 「……失礼します」 「待てって、痛ー」 「二度も同じ手には引っ掛かりません」 伸ばした左手をあっさり振りほどかれて、シオンは情けなく眉をしかめた。 「送っていこうか?」 「怪我してる方に送って頂かなくても大丈夫です。私だって伊達に騎士見習いしてるわけじゃありません」 「まぁお前さん強いもんなぁ。じゃせめて風の守護があるように……」 のんびりとソファーから起きあがって、シオンは机の引き出しから何やら取り出す。 「なんですか?」 「ん、これやるよ」 無造作にシルフィスへと放られたのは、美しい翡翠のはめられたペンダントだった。 「え、こんな高価なもの頂けないです!」 「……云うと思った。とりあえず今日は着けて帰んな。つけてくれないと騎士団まで付いていくからな」 「……また貴方はそういう……」 「で?」 「……わかりました。お借りします」 「ま、そのうち指輪とセットでな」 「は?」 「どっちにしろシルフィスの物だから、それは」 当然の如くに云いきったシオンをシルフィスは唖然として見つめた。 「お前の目の色に合わせて買ったものだから」 「……だってこんなに大きな石……」 「重い? 重いか? シルフィス」 静かに向けられた視線は真剣で、シルフィスにその言葉を深く考えさせる。シオンが聞いているのは、石の重みのことだけではないように思えた。だから答える前にペンダントを着けてみた。 ふいに胸元へ暖かい何かが流れこんだような気がした。シオンに守られているようなその感覚がシルフィスを微笑ませた。 「重くないです。なんだか暖かい」 「よかった」 ほっとしたように笑ったシオンを見て、眩暈がするような甘い痛みを胸に感じた。 石に込められた魔法はシオンの想いだ。 シルフィスを護ってくれる強い想いなのだろう。 「ありがとうございます」 言葉にできないほどの沸き上がる感情を伝える術を探して、シルフィスはシオンへと駆け寄った。 「シルフィス?」 背伸びをして触れた唇へ、この幸せな想いが伝わりますようにとシルフィスは切に願ったのだった。 Ende. 2002.03.23 天羽りんと ギリギリの中で作った話のわりには、比較的纏まった方かも。時間なかったので雑ではありますが(^^;)。趣味は爆発してる感じです(笑) |