金色に輝く夢(1)

by 天羽りんと


 眠れない夜がある―――

 まどろむような眠りの中に、訪れるのは甘く、優しい金色の夢。淡く今にも消えてしまいそうなほどに、儚いだけのまぼろし。
 眠れないまま、酒の量だけが増えていく。酔うことなど出来ないのに。
 今日も、どれだけグラスを空けたのか、もう数など知らない。こうして頭の芯は冴えたままで、無理に身体を横たえるのだ。淡い幻想に、囚われてしまったから……
 でもその夢を見ているのは、幸せなのだ。夢だと、心のどこかで判っていながら、それでもその胸の痛みは、幸せだと思える痛みだ。だからよいのだ。いくら寝不足が続いても、この夢が見られるのなら。
 それほどに、この幻は魅力的だから。
 目が醒めれば消えてしまうと識りながら、シオンはまどろみ続ける。淡くけぶる金色の幻の中で。



「……シオンさま?」
 夢の中から、声がした。
「シルフィス?」
 反射的に答えてから、自分の声で夢でないことに気付いた。執務室で机に向かったまま、うたた寝をしてしまっていたらしい。
「あの、殿下がお呼びです」
 申し訳なさそうに、シルフィスは告げた。恐らく、声を掛けるのもためらっていたのだろう。そんな様子がありありと思い浮かんだ。
「ありがとう」
「だいぶお疲れのようですね。すみません、起こしてしまって」
 張りのある声で謝った拍子に、揺れて金にきらめくその髪。心配そうに曇るその顔。変わらぬ透度の高いその翡翠の眼差しが、ひたとシオンにそそがれている。その全てから、視線が外せない。小さな一つ一つが、たまらなく嬉しいのだ。
 いい年をして、全く……。
 そんな自身をどこか高みで笑いながら、それでも己の心配をしてくれているというただそれだけのことが、やはり嬉しかった。
「いや、助かった。午睡ばかりして、と怒られるところだったからな」
 ばれずに済んだ、と笑ってみせたシオンに、シルフィスは笑みを返しながら、シオンの顔をまだ見つめていた。
 続く寝不足のせいでできているクマに気付いたのだろう。
「どうした?」
「……少し、お痩せになられたのでは?」
「……そうかな……。確かに近頃夜は酒しか飲んでないな、そういえば……」
「な、身体を壊してしまいます! どうしてそんな無茶をするんですか!?」
 お前のせいだ、と云えたらどんなに楽だろう。ふっと自嘲気味に笑って、シオンは視線を伏せた。
「月が出てるとさ、駄目なんだ。何も食べたくなくなる」
「夜もちゃんと寝ないと駄目ですよ?」
「……眠れないんだ。好きで寝ないわけじゃないんだぜ? どうしても寝られないんだよ」
「……理由は判っているのですか?」
「判ってるけど、どうしようもないんだ。まどろんでいるのも心地いいしさ」
 切ない程の眼差しだけを、ただシルフィスへと向ける。視線だけで、会話ができたらいいのに。そんな少女のようなことを考えてしまう。
「なんだか、シオンさまらしくないですね」
「そうだな」
 外せなくなりそうな視線を意識して伏せて、シオンは何気なさを装ったまま立ち上がる。
「さて、殿下は何の用かな」
「……あまりご無理をなさらないで下さいね」
 心配そうにそれだけ云い残して、シルフィスはシオンの部屋を出て行った。



 仕事を終え、シオンは庭園に来ていた。宮殿奥のこの庭は、中庭と違って殆ど人通りも無く、シオンの寛ぎの場となっていた。
 彼の手によって育てられた花々が、爽やかな風に静かに揺れている。いつしか薔薇の美しい季節になっていた。
 咲き誇る気高き薔薇に、どこかシルフィスが重なって見えて。考えるよりも先に、薔薇を手折っていた。香る芳香は珍しいものではないのに、こんなにも心が踊るのは何故だろう? 知らず、微笑みが浮かぶ。あの腕の中に持たせたなら、この華はどれだけ輝くのだろう。
 薔薇の色は、純白。切なくなるほどに白く、穢れを知らないその色。
 これ以上シルフィスに似合う色は無い。
 あのどこまでも綺麗な心、そのままに―――
 そうして薔薇の香りに酔ったように、どこか陶然とシオンは作り上げた花束を抱きあげた。
 そのまま真っ直ぐに騎士団宿舎へと駆け付けたい気持ちを、さすがに理性が押しとどめた。彼の行動が、どれだけ目立つものなのかを、シオン自身が一番よく判っていたので。
「裏から出るか」
 性に合わんな、と彼の幼馴染み辺りが聞いたら目を向きそうな言葉をさらりと吐いて、シオンは悠々と王宮の裏から外へ出た。



 ひときわ柔らかな風が、シルフィスに華の香りを運んだ。
 コン、と軽いノックの音。
「はい」
 返事をしながら、訪ねてきた相手がふっと思い浮かんで、シルフィスは慌てて立ち上がった。
 よくあることでは、ない。何か一大事でも起きたのかと、疑いかけてしまったくらいには。
「ちょっといいか?」
 辺りを憚るように、抑えられた声がした。
「……どうぞ、開いています」
 現れたシオンの姿に、シルフィスは絶句していた。
「遅くに悪いな」
 緊張感が一気にほぐれてしまうような、その姿。呆気に取られたシルフィスの気など知らず、腕一杯の白薔薇を抱えてシオンはどこか幸せそうに笑った。以前から思っていたことではあるが、花の側にいるシオンはどこか柔らかな顔をする。中へ近寄られることを避けるように皮肉ばかりを紡ぐ唇が、真摯な言葉を発する。なぜかそんな気がする。こんな時ばかりその瞳が、真実を見据えている。飴色の輝きが、それをシルフィスに信じさせるのだ。
「……いえ」
 そんなことを思いながら、おずおずとシルフィスは首を振った。じっとシオンの姿を、見つめたまま。
「ちょっと思い立ってさ」
 ふいに蒼く背に流れる長髪が、僅かに開いていた窓から入り込んだ風に浮いて、戯れのように薔薇に絡んだ。深い青と、純白のコントラストは鮮やかすぎるほどに美しく……
「あ……」
 シルフィスは、紡ぐ筈の言葉を見失った。華とシオン、そのどちらに感動したのかも判らない。ただ、その姿に、ふいに涙が出そうになって……。
 どうしたというのだろう? 綺麗だと、そう思っただけなのに。
「シルフィス?」
「……ごめんなさい」
 慌てて顔を伏せていた。
「お前にやろうと思ったんだけど、お気に召さないかな?」
 ふいに俯いてしまったシルフィスの前に、ちょっと首を傾げながらそれでもシオンは、花を差し出した。
「いえ、」
 向けられた薔薇の香りに、心が震えるのが判った。
 こんなにも動揺してしまうのは何故だろう?
「でも、何故私に?」
 鼓動の音が、聞こえる。声は震えなかっただろうか? それすらも判らない。自分の声が、そうじゃないみたいに遠くに聞こえた。
「お前に、似合うだろうなぁと思ってさ」
 微小の照れすらなく、シオンは嬉しそうに告げた。一癖も二癖もある筈の彼の言動なのに。すんなりと心が信じてしまう。この全てに嘘はない、と。
 それとも己の勝手な思い込みだろうか。
「シオン様の方がお似合いですよ」
 抱え慣れた手つきで花束を持つ姿は、文句なく決まっている。自分の言動をどこか遠くに感じながらシルフィスは、それでもシオンを見上げた。
「なーに云ってんだか。いいから、嫌いじゃないないなら持って見せてよ」
 お気に入りのおもちゃを持ってきた子供のような眼差しを、シオンは向けてくる。ただ純粋に、シルフィスのために来たのだと直感した。気を引こうとか、そんな作為を感じさせる言動だったなら、平静でいられたのだろう。裏だらけの人間がなぜ今日は、こんなにも素直な眼差しを向けてくるのだろう? だからこんなにも動揺してしまう。いっそいつもみたいにからかうように笑ってくれたらいいのに。
 動揺を隠せないまま、シルフィスはおずおずと花束を受け取った。重いほどの薔薇が、むせるような香りを運ぶ。幸せな香りだと、唐突にシルフィスは思った。緊張が一気にほぐれて、意識もなくシルフィスは微笑んだ。
 その様子にシオンは目を瞠った。その翳りの無い美しさは、純粋な心ゆえなのか。
 そんなシオンに気付かないままに、シルフィスは告げた。
「ありがとうございます」
「……想像以上だな」
 シルフィスに聞かせるでもなく呟いて、シオンは眩しいものでも見るようにその視線を僅かに眇めさせた。
「んじゃ、俺帰るわ」
 意識的に視線を外して、シオンは踵を返す。
「こ、これだけの為にいらしたのですか?」
 王宮の、筆頭魔導士が、たかがこれだけのために?
「そ」
 驚くシルフィスに笑みを含んだ視線を流して、シオンは短く頷いた。
 それ以上の声を掛ける間も与えられずに。
 まるで夢のように、薔薇の使者は消えた。
                  


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