眩暈・1 ◆戻
途中から酷く緩やかな眩暈がしていた。軽い酩酊感にも似た感覚。とまることのないその感覚が、どこか心地よくさえ思えてしまったので、ただそのままにしていた。 暴れるモンスターを一定範囲に閉じ込めておくために、指先から均一に流れ出してゆく魔力。ゆらゆらと穏やかな海に漂うように揺れる視界。 ちょっとばかりまずいんだろうな。 狭まりつつある視界には、モンスター相手に苦戦する騎士が五人、その先には半分の結界を受け持つキールがいる。 森に人を襲うモンスターが現れたと騒ぎ始めたのが先週のはじめ頃。どうにも被害が大きくなってきた上に明確な情報も無かったので、一匹のモンスター退治に騎士五人にシオンとキールまで出動するハメになっていた。 森で罠をかけて待つこと数十分。現れたモンスターは、確かにかなりの強敵ではあった。 ちらっと見てシオンは、自分一人でも充分な敵だと判断したが、既に作戦は遂行されている。なにより、シオン一人が無駄に力を使うこともない。 そうしてシオンは、キールと二人で結界を守るために力を注いでいた。 だが、騎士達でのモンスター退治はなかなか手こずっているようだった。なにせ異様に体が大きい。内包する力はさほどでもないようだが、単純に力くらべではちと分が悪い。 いつもの自分なら、この辺で一気にカタをつけたいところなのだが…… 今日は少しばかり事情が違う。自覚は無かったが、どうも体調があまりよくないのだろう。 気分は悪くないのだが、戦いの高揚感も皆無だ。 こんなにものんびりゆらゆらしてちゃ話にならんよなぁ。 まるきり人事のように思ったその時だった。 「シオン様!」 キールの驚いたような叫び。 シオン側の結界の一部が弱まっている。安定させていた魔力が一瞬弱まったらしい。 「げっ」 緊張感なく呟いたシオンの方へと、手負いのモンスターは逃げ場を求めて近寄ってくる。 結界の補強を施すつもりでいたシオンだったが、モンスターの様子を見て瞬時にその判断は翻った。 どうせ今から補強したところでシオンと力がぶつかることに変わりは無いだろう。ならば…… 「キール。俺以外に結界を!」 叫ぶなりシオンは風魔法をぶつけた。 モンスターの足が止まる。 怒りの咆哮が轟き、大地まで震わせるほどに響いた。 「ちっ」 軽く舌打ちをする。魔法にいつもほどの威力がない。尤もそれは、キールぐらいの使い手が漸く気付く程度の違いではあったのだが。 もとより足止め程度の魔法だったが、モンスターはもうゆっくりと歩き始めている。もう少し詠唱時間を稼ぐつもりだったシオンには計算外だった。 さて、どうするかな。 目の前に迫るモンスター。 時間が無い。中からやるか! すらっと腰の剣を引き抜く。護衛用に持ってきていたものだった。 緩慢な動きで伸びてきたモンスターの手を余裕で避けて、シオンはモンスターの体躯に剣の刃を食い込ませた。ざくりと肉の裂ける感触を、剣を握る右手は確かに感じた。 声ならぬモンスターの叫び。 怒りの反撃が来る前に、シオンは短く魔法を唱えた。細身の剣は、モンスターの体にしっかりと突き刺さっている。モンスターの体内を、剣を媒介して炎が焼き尽くしてゆく。 苦悶の声を上げながらモンスターの爪が剣を持つシオンへと伸びる。シオンは僅かに体勢をずらしたものの、剣を持つ手は離さない。 「ぐおおおおっ」 逃げ場が無くなったシオンの左肩へとその爪が食い込んでいく。整った眉をしかめることすらせずに、シオンは剣を握り締めている。 「そろそろ終わりにしようか」 鋭さを孕んだシオンの瞳が、僅かに細められ、爪を食い込ませたままの左腕がすらりと上がった。 短い呪文の後、モンスターの体内から嵐のような風が巻き起こる。 モンスターは骸すら残さずに風に消えた。 周囲の騎士達は、その様をただ茫然と見ていた。シオンの戦い慣れた様子と、飄々と繰り出された魔法の威力を目の当たりにして圧倒されていたのだった。 一つ大きく息を吐いたシオンの左肩から、つと一筋の血が流れ落ち、その手首にまで伝わっていた。緑の肩掛けの布地の一部が赤く染まっている。 「シオン様!」 結界を解いて、キールが近づいてくる。 「……たいしたことない。俺よりあっちだ」 癒しの魔法を唱えようとしたキールを手で制して、シオンは怪我をした騎士たちへと視線を向けた。 「……わかりました」 「悪かったな、ちょっと気が緩んだ」 苦笑したシオンに、キールは怪訝な顔をする。 「具合でも悪いのかと思っていたんですが……」 「ああ、ちょっと眩暈がしてさ」 「……あなたという人は、そんな状態でなんだってあんな無茶なことをするんです!?」 「一番手っ取り早いと思ったんだが?」 当然のように告げるシオンに、キールは絶句した。 「始末書頼むよ」 シオンは軽く右手を上げて先に王宮へと戻っていく。 「……判りました。今日はお休みください」 仕方なさそうにキールは頷いて、騎士たちに向き直った。 シオンの王宮へ戻る足取りは重かった。瞬間的にとはいえ、身を削るような無茶な力の放出をしたせいだろう。気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうだった。どう頑張っても、さすがに顔色の悪さまでは取り繕えない。 なるべく文句を云ってくるような輩に見つからないようにと願いながら、シオンは部屋に向かった。尤も、シオンに面と向かって何らかの苦言を呈せる人間などクライン中探したって数人なのだが。 「おや、シオン。どうしたんだい?」 あと数メートルで部屋に入るというところで、セイリオスに呼び止められる。 「…………」 どうやらその数人のうちの一人に見つかってしまったようだった。血の汚れを隠す為に肩掛けを外していたのが、目についたようだ。 「ん? なんだか顔色がよくないな」 「……ちょっと、な。たいしたことないから」 「また、何かやらかしたのかい?」 「……そうそう。ま、内緒にしといてよ」 「……酷いようならちゃんと医者にかかるんだよ。シオンは自分自身に無頓着すぎる」 心配そうにセイリオスの綺麗なラインを描く眉がひそめられる。セイリオスにだけは云われたくない台詞だと思いながらも、反論する気力までは無かった。 「はいはい、わかってますって」 極力いつもの声を装って、シオンはひらひらと手を振って部屋へと入っていった。ちょっと不審に思われたかもしれないくらいのそっけなさだったが、シオンとしてもこれでギリギリだった。 背後でセイリオスの溜息が聞こえたような気がした。 部屋に入った途端、大きな揺れがきた。ぐらりと揺れる視界。 「ちっ」 近くの壁に手をついて揺れを押さえる。 何もかもが酷く不快だった。 持っていた肩掛けを床に投げ捨て、シオンはソファーに倒れこむように身体を投げ出した。 柔らかなスプリングがシオンの重みを受けて緩やかに軋む。 「……っ」 動いた衝撃に左肩が強く痛んで、シオンは大きく息を吐いた。 傷はたいしたことはない筈だが、痛みが気に障る。 いつもなら魔法でさっさと治療してしまうのだが、さすがに今日はもう魔法を使う気にはなれなかった。おそらく無理に治療して傷の痛みが消えても、気分の悪さは倍増するだろう。 ひとまず傷を確認しようと、無造作に左腕を出した時だった。 コンコン、と控えめにシオンの部屋の扉がノックされる音が聞こえた。 「……誰だ?」 不機嫌を隠すこともしない誰何するシオンの声は固く、一際怜たく響いた。 「シルフィスです」 けれどその冷たさにも臆することのない、いつものような凛とした声が返る。 声を聞いて思い出した。その清涼剤みたいに清々しい姿を、三日ほど見ていなかったことに。 「後にした方がよろしいですか?」 「まさか。とにかく入んな」 どれだけ親しくなっても変わらないその律儀さにシオンは苦笑する。 「……はい。失礼します」 僅かな逡巡するような間の後、扉は静かに開かれた。 「ノックいらないって云っただろ、この前も……」 「シオン様! どうしたんですか、その肩!」 言いかけたシオンの台詞を、珍しくもシルフィスが遮った。 「ああ、さっきちょっとやっちまった」 「ちょっとって、ちょっとじゃないじゃないですか!」 慌てたようにシルフィスが駆け寄ってくる。 いつ見ても綺麗だよなぁ〜、とのんびりしたことを思いながら、見てもいなかった左肩にシオンも漸く目をやった。 「あれま」 さほど深くは無いと思っていた傷だったが、どうやら浅くもなかったらしい。傷口からの出血がやっと止まったか、という状態。流れた血が腕まで辿り落ちたらしく、手首近くまでこびりついている。 「何のんびりしてるんですか!」 まるきり焦った様子も無い呟きにシルフィスは呆れてしまう。どうしてこの人は、こうも自分のことに無頓着なのだろう。 「う〜ん、そこの箱取ってくれるか?」 シルフィスは手にしていた書類をシオンの机に置いて、近くの棚の中に入った救急箱を取り出す。 「あ、アイシュ様から預かった書類、ここに置いておきますね」 「ああ。急ぐって?」 「急を要するとは伺ってませんよ。シオン様は今日は早く休まなければ駄目です」 「……皆に云われるな」 「当り前です。酷い顔色ですよ、」 箱をシオンの近くに置いて、シルフィスは困ったように見つめた。 「気分も悪いのでしょう?」 「ん〜でもお前さんと話してたら少し気が紛れたかな」 「……無茶しすぎです。シオン様は」 「……今日は間が悪かったんだって。それより、その様づけも敬語もやめろってば」 「……急には無理です」 斜めになっていた上半身を起こして、シオンは生真面目なシルフィスをまじまじと見つめた。 「なんか怒ってないか? シルフィス」 「おかしいですか?」 「……心配してくれるのは嬉しいけどな。こんな怪我の一つや二つじゃ死なないって、俺は」 「当たり前です。誰も死ぬとは思ってませんよ。それでも、貴方が血を流してる姿なんてあまり見たくない。シオン様だって、私が流血してる姿を見て楽しいですか?」 「……悪かった」 確かにシルフィスが少しでも傷ついた姿なんて、見たくない。そんな事態は起こってほしくないと思う。でもどうにもシオンの中では、シオンのつまらない怪我とシルフィスが傷つく姿とを同じようには考えられない。 「……タオルを濡らしてきます」 シオンの傷の様子を見て、シルフィスは立ち上がる。 「悪い」 なんとなく謝ってしまったシオンに、シルフィスはやっと少しだけ微笑みを見せてくれた。 Next. |