NE・GA・I
 Prologue
 
 守護聖とは、普通の人間には持ちえぬ輝きを内に秘めている人達だと思っていた。その中でも最も強い輝きを持っている貴方。
 誰よりも何よりも美しくて、強く輝く。それが、彼だと思っていた。
 その性格、その経歴ゆえに、彼を否定的に見る者も、少なくはない。
 けれど、自分は違う。恐らくは、一目見たその時から、彼に惹かれていたのではないかと、最近はそう思えてならない。
 豪奢な金の髪と澄みきった深い紺碧の瞳を持ち、高い矜持を懐く彼。そんな彼を恐れる者もいるという。けれど、自分は一度として彼を怖いとは思わなかった。
 最初は誇り高い彼に、認められたいと、唯、それだけを考えていたのだ。
 いつ頃からだろう。その願いがより大きく増していったのは。
 大陸には光の家が段々と増えていき、言葉を交わすうちに優しい視線をもらえるようにもなった。
 けれども、願いが叶えば叶うほど、望むことは増えていって……。
 息が止まるかと思うような瞬間さえある。だが、そんな瞬間さえもが、やがて全身を包み込む至福へと変わってゆく。
 今、最も恐れることは、叶った願いが壊れてしまうこと。
 本当はより大きな願いなど持つべきではないのだ。
 しかし、判っていてなお、願わずにはいられない。
 貴方と共に過ごす瞬間を、そして……



SCENE 1
 
 ジュリアスの執務室で、オスカーは仕事の報告をしていた。
「それで、よろしいですか?」
「…………」
 オスカーの確認の問いに、返事は返らない。書類から瞳を上げてオスカーは、どこかぼんやりとしたままのジュリアスに気付いた。
「ジュリアス様?」
「は? ……すまない、オスカー」
 話の途中から己の思考にばかり気を取られていたジュリアスに、オスカーは小さく微笑した。
「ジュリアス様がぼんやりなさるなんて、珍しいですね」
「すまぬ。少し惚けていたようで」
 自分でも驚いた様子で、ジュリアスは困ったように微かに笑った。
「俺のことは構いませんよ。それよりも、貴方の心を捕らえて、放さないのは、ひょっとして、あの女王候補の……」
「いや、そういうわけでは……」
 オスカーの云い掛けた名前を、ジュリアスは云い訳がましく遮った。
「本当に珍しいこともありますね」
 フッと笑ったオスカーに、ジュリアスは否定しようとして、僅かに表情を崩した。いつも殆ど崩れることのない、光の守護聖ジュリアスの端整なポーカーフェイス。その彼が、滅多に見せない焦ったような表情を浮かべている。その表情が、何よりもオスカーの言葉を肯定している。
「確かに、彼女には不思議な魅力があるようですね」
「……お前は、二人の女王候補をどう思う?」
 反論するのを諦めたのか、ジュリアスは、僅かな間をおいて、オスカーに逆に問い掛けた。
「そう、ですね……」
 アイスブルーのオスカーの瞳が、考え込むように揺れて……。
 次の瞬間には、いつもの自信に溢れた瞳をジュリアスへと向けた。
「客観的な視野から見ると、ロザリアは、いわゆる一般の求める女王としては文句ない素質を備えているように思います。純粋に、能力のみを評価の対象とした場合には、確かにアンジェリークの方が欠けている部分が多い。だが、俺には不思議に思うことがあるのです」
「それは?」
「それこそが、貴方の心を捕らえる何かのことですよ」
 皮肉気な笑みを唇の端に浮かべて、オスカーは続ける。
「だから、それが何か、と聞いている」
 些か憮然としたジュリアスに、オスカーは困ったように笑った。
「女王としての能力のみを判断した場合に、ロザリアは非常に優れている。にもかかわらず、私達以外の殆どの守護聖も、彼女ではなくアンジェリークを支持している。先日の定期審査で、そのことについてはジュリアス様もお考えになられたのではないですか?」
「…………」
「そして、それこそが、貴方を悩ませる。明確な理由はないが、新しい世界の女王には、アンジェリークが相応しい気がしてしまう。そうでしょう?」
「……本来ならば、守護聖である私が、感情から答えを出してはいけないのであろうが……」
 珍しく、本当に珍しく歯切れの悪い答えをジュリアスは返した。豪奢な金の髪が、さらりと揺れて、机に零れ落ちる。
「それが、彼女の、アンジェリークの魔法なのでしょうね」
「お前とも、親しいようだな」
 無感情の一言に、微小の心配の気配を聞き取って、オスカーは少々質の悪い笑みを浮かべた。
「そうですねぇ、つきっきりでアドバイスしてあげたいくらいには、気になりますが?」
「何? 星の育成についてか?」
「いや、好きな相手に、気持ちを伝える方法や、」
 さらに続けようとしたオスカーの言葉を遮るようにジュリアスは問い質した。
「な、……アンジェリークには、そんな相手がいるのか!?」
「さぁ、そこまでは知りませんが。案外、相手が気付いていないだけかもしれませんし」
「……そうか、そうだな」
 己の不謹慎な発言に気付かぬままに、思いを巡らすジュリアスに、オスカーは笑いを耐えかねて、早々に退散することにした。
「それでは、俺はこれで失礼します」
「あ、ああ」
 パタンとジュリアスの執務室の扉を閉めて、オスカーは壁に寄り掛かったまま、くすくすと笑いを零した。その笑いは悪意的なものなどではなく、むしろ、その逆と云って良かった。恋にめざめた息子を見守る父親のような気分で、日頃厳格でとことん真面目なジュリアスの滅多に見せない一面がかわいくもあった。
「オスカー? どうかしましたか?」
 顔を片手で覆って壁に寄り掛かる彼の姿に、通り掛かった水の守護聖リュミエールが不思議そうに声を掛ける。
「いや、ちょっとな」
「機嫌がよろしいようで、結構ですね」
 ふわりと、柔らかな微笑をリュミエールは向けた。
「まぁな」
「廊下などで、何を待っていらっしゃるのですか?」
「怒鳴り声、をね」
「?」
「そろそろ、かな」
 まだオスカーの顔には笑いが残っている。その声には状況を楽しむ響きが含まれている。
「オスカーッ」
 扉の内から小さな叫びが届く。
「珍しい、ですね。貴方がジュリアス様を怒らせるなんて」
「なぁに、お前がクラヴィス様に怒られること程、珍しくはないさ」
 驚いたように瞳を丸くするリュミエールに、オスカーは軽く片手を上げて、再び執務室の扉を開けた。
「オ、オスカーッ、気持ちを伝える方法を、つきっきりで、アドバイスとは、どういう意味だっ!? まさか、アンジェリークに妙なことなど教えてはいないであろうな」
「妙なこと、と申しますと?」
「いや、その、……お前の得意分野のことだ」
「…………」
 オスカーは、呆気に取られて一瞬後、とうとう爆笑した。
「何がおかしいのだッ」
「いや、すみません。……それについてでしたら、アンジェリークよりもジュリアス様にお教えしたいですね。彼女の感情表現は、悪くないですよ。好きな相手に好意を伝える術を無意識に知っている」
「…………」
 黙り込んだジュリアスに、オスカーは静かな答えを返した。
「……彼女の魔法は、笑顔、ですよ」
「……そうかもしれぬな」
 思い当たることがあるのか、ジュリアスは小さく頷いた。
「明日は日の曜日ですね。彼女に、貴方の馬の子を見せてあげたら如何ですか?」
「そうか、そうだな。ふむ。ところで、……お前は、いつもそのように女性と付き合っているのか?」
「いや、もう少し、深い付き合い、かもしれませんね」
 笑いを含んだ声音で告げたオスカーを見て、ジュリアスは言葉に詰まった。
「な……」
「アンジェリークはまだ子供に近い年齢でしょう? 物事には順番があるのですから」
「……オスカー、……」
「なんですか?」
 悪びれないその様子に、ジュリアスは呆れたように首を振った。
「いや、なんでもない」
「そうですか? ならば、俺は失礼します。少々、用事を思い出したもので」



    「よう! お嬢ちゃん。エリューシオンに行ってきたのかな?」
 オスカーはアンジェリークの部屋の前で、腕をくみ軽く壁に凭れて佇んでいた。部屋に戻ってきたアンジェリークに気付くと身を起こして、小さく笑い掛けた。
「はい、オスカー様。あの、どうかなさったんですか?」
 珍しい時間の訪問にアンジェリークは、少々首を傾げた。
「いや、お嬢ちゃん、明日は暇かい?」
「はい」
「そうか。ならば、ジュリアス様の所へ行ってみるといい。何か見せてくれるぞ」
「ジュリアス様の所へ、ですか?」
「ああ」
「それを知らせて下さるために……。判りました。行ってみます。ありがとうございます、オスカー様」
「礼には及ばないぜ。俺は、女性の望みを叶えるのが趣味なのさ」
 フッと笑って、オスカーは濃紺のマントを翻して、聖殿へと戻っていった。
『ジュリアス様と、仲良くなりたいんです』
 占い館を通り掛かった時に、アンジェリークに頼まれた願いを、オスカーはちゃんと覚えていた。



SCENE 2

「おはようございます、ジュリアス様」
「ああ、アンジェリーク。今日も元気なようで、何よりだな」
 自分が赴こうと思っていたのに、アンジェリークは、それよりも早くやってきた。ジュリアスはそのことを嬉しく思いながらも、うまく表情には出なかった。
「ああ、ちょうどよいところへきた。私の馬に子が産まれたのだ。見に行かぬか?」
「はい、ありがとうございます。ジュリアス様」
 嬉しそうに笑うアンジェリークが眩しくて、ジュリアスは瞳を僅かに細め、こちらもまたとろけるような笑顔を見せた。
「ああ、では行こう」
 公園の丘の近くに馬の親子はいた。美しい栗毛の母馬に、見事な純白の毛を持つ子馬。仲睦まじく寄り添う親子の様子は微笑ましく、見る者の表情を和らがせる。それは、ジュリアスとて例外ではなく、日頃滅多に見ることのできないほど柔らかな表情で馬の親子を見つめていた。
 そのジュリアスの表情を見た途端、アンジェリークは急に胸に痛みを感じた。自分の願いが叶う喜びと、更にそれ以上を求めてしまう辛さと。複雑な感情がアンジェリークの表情を曇らせた。
「どうした、アンジェリーク?」
 向けられた笑顔の優しさに、ドキリと胸が高なる。自分だけに向けられた彼の笑顔には、何度見ても慣れることはできない。
「いえ……あの、かわいいですね」
「そうだな」
 美しい青の眼差しが至近にある。透明で綺麗なその青は宝石のようだった。ふいに降り懸かる金髪がさらりと風に靡く。
 彼の背を覆う髪から金色のオーラが見えたような気がして、アンジェリークはじっとその美しい様を見つめてしまった。
(キレイ……)
「今日は、ぼんやりとしているのだな」
 少し寂し気な表情のジュリアスに、アンジェリークは慌てて否定の言葉を口に乗せた。
「いいえ! そんなことありません」
 少々顔を赤らめながら、強く否定する。けれど、見惚れていたなどと、本人を目の前に云えるわけもなく……
「そうか? ではそろそろ帰るぞ」
 ジュリアスに誤解を残した。



「時の流れとは早いものだ。あの母馬が生まれたのがつい昨日のことのようだ。馬にとっての時間は人とは違うが、我々守護聖は、人とも違う時間を生きているのだからな」
 アンジェリークの部屋でそう語ったジュリアスは、いつもと変わらぬポーカーフェイスのままだった。けれど、アンジェリークはその瞳に潜む微かな寂しさを、瞬間垣間見たような気がして、どうしようもなく胸が痛んだ。
「人とは違う時間、なんですよね」
「そうだな」
「それは、私が女王になれずに、またもとの世界に戻ったら、もう守護聖様にお会いすることも叶わないかもしれないということですよね」
 そうしたら、叶った願いさえも、壊れてしまう。彼の顔を見ることすら、できなくなる。それは、アンジェリークにとって堪え難いことだった。
「…………」
 アンジェリークの言葉は、ジュリアスにとって承知済みの事実だった。けれど、はっきりとアンジェリーク自身の口から聞いて、ジュリアスは返す言葉をすぐには見付けられなかった。
 『もう、会えない』という可能性を示唆されて、何故こんなにもためらうのだろう。今の自分に、彼女の居ない聖地など、考えられない。まるで人が、太陽を失うかのように……。いつの間にこんな風に思うようになってしまったのだろう。この少女を悲しませたくはないと、この想いは、何なのだろう。……解らない。
 小さく一つ首を振って、ジュリアスは気を取り直したように告げた。
「……お前は、新しい世界の女王に相応しいと、私には思えるぞ」
 漸く紡ぎ出されたジュリアスの言葉は、アンジェリークの欲しかったものではなかった。けれど、こんな時でさえ、アンジェリークは彼の声を心地好いものに感じていた。低く穏やかな深みのあるその声で、告げられる内容は残酷だった。彼はあくまでもまず守護聖であろうとする。誇り高き光の守護聖。彼に何を云えば、よいのだろう。何をすれば、彼の心に触れられるのだろう。
 解らないまま、アンジェリークもまた女王候補としての答えをぎこちなく返した。
「……ありがとう、ございます」
 どこか気まずい雰囲気のまま、言葉少なに、ジュリアスは戻っていった。



SCENE 3
 それから数日、ジュリアスの心は曇ったままだった。公園の丘の上でどこかぼんやりとしていたアンジェリーク。彼女の心は、何処に、何に向いているのだろう。そして、どうして自分は、こんなにまで彼女のことが気になるのだろう。
 机の上の書類を眺めながらも仕事に専念することは出来ず、苛立たしい気分のままジュリアスは椅子から立ち上がった。
 その時、彼の部屋のドアを叩くノックの音が聞こえた。
「開いているぞ」
 愛想のあの字もない声を掛けて、ドアへと視線を向ける。
「入ってもよいか」
「クラヴィス?」
 姿を見せたのは、闇の守護聖クラヴィスだった。日頃、ジュリアスの部屋に彼が来ることなど、滅多にない。少々驚いたように、ジュリアスは突然の訪問者を見つめた。
「……なんという顔をしているのだ、お前は」
 いつも毅然とした態度を決して崩すことのないジュリアスの、どこか日頃と違った様子を察知して、クラヴィスは驚きの声を発した。
「私はいつもと変わらぬ」
「お前らしくもない」
 ムッとしたようなジュリアスに、クラヴィスは呟くように告げて部屋の中へと歩みを進める。
「それより、どういう風の吹き回しだ?」
「少し、気になることがあってな」
「お前が私の執務室に来るとは、珍しいな」
 とにかく座れ、と奥の部屋のソファーを勧めて、ジュリアスも向かいに腰掛ける。
「気になること、とは何だ?」
「女王候補のことだ」
 クラヴィスの思いがけない言葉に、ジュリアスは瞳を見開いた。
「……何かあったのか?」
「いや。ただ無理をしているように思えてな」
「どちらの話だ?」
 返ってくる名前が判っていながら、敢えてジュリアスは問う。その間に、己の心を落ち着かせて、真っ直ぐにクラヴィスへと視線を向けた。
「判っているのだろう? アンジェリークだ。ロザリアに大きな差を付けて、あと10個ばかりの建物を建てれば女王になれるという今になって、懸命に育成をしているようだ。焦らなくともなれるということは判っているだろうに……。何かから逃げようとしているようにしか思えん。お前なら何か心当たりがあるかと思ってな」
「そうか……」
 共に公園に行ったあの日以来、アンジェリークの顔を見ていない。ジュリアスは彼女の顔を見ることのできない寂しさにも似た感情を、はっきりと実感していた。あの日、『女王に相応しい』と云った自分に、何処か悲し気な表情を見せたアンジェリーク。だが、彼女はやはり女王になることを望んでいるのだろうか。
「私には判らん。アンジェリークは、女王になりたいのではないのか?」
「お前は、アンジェリークに女王になってほしいと、思うのか?」
「…………」
 クラヴィスの問い掛けに、ジュリアスは一瞬の沈黙を返さざるおえなかった。より女王に相応しいと思うのは? という問いならば、即座に答えただろう。けれど、なってほしいか、という感情面の話になると、そう単純にはいかない。そうなってしまった自分の心の働きについて、ジュリアスは困りながらも認識を誤ってはいなかった。
「私の感情で女王が決まるわけではあるまい。女王陛下の御意志が何より絶対であるのだ」
 ジュリアスらしい言葉だったが、いつもよりその響きに力が無いことにクラヴィスは気付いていた。
「お前は、何としてもその仮面を取る気はないのか?」
「仮面とは、何のことだ?」
 訝し気な視線を向けたジュリアスに、クラヴィスは遠慮なく告げた。
「女王陛下に仕える守護聖の長、光の守護聖ジュリアスという、仮面だ」
「何?」
「何も我々の前で外せとは云ってはおらぬ。ただ、お前が外すことを望んだ時に、それを無理に押さえることはない、と云っている」
「クラヴィス……」
 思いがけない言葉に、ジュリアスはまじまじとクラヴィスを見つめた。
「別にお前を心配して云っているわけではない。ただ、アンジェリークには、幸せになって欲しい。まだ、全てを諦めるには早い年齢だと思うのでな」
 そう云って、ゆっくりとソファーからクラヴィスは立ち上がった。
「お前のように、か?」
「そうだ。私のような人間を、増やしたところで仕方あるまい?」
 皮肉めいた微かな笑みを唇に浮かべて、クラヴィスはジュリアスの執務室を後にした。



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